役に立たない学び、建築の夢―中学受験の功罪(フィクション)

2019/12/11 種田元晴


建築のことを考え、そして、その楽しみを伝えることを仕事にしています。

建築は勿論、考えるもの、楽しむものである前に、使われるものです。使い手の心地よさを想いながら、強く美しくつくられるべきものです。逆をいえば、建築とは、そのつくり手の想いが心地よく強く美しい空間として表れたもののことをいうのだと、そのように考えてみたいと思います。

建築はひとりではつくれません。つまり、つくり手の想いはひとつではありません。たくさんの人の手のあとが、ひとつの建築のなかにつけられています。

建築がつくられる過程に想いを馳せてみましょう。多くの手でつくられる建築も、その構想の時点にまでさかのぼれば、誰かが引いた一本の線にいきつくでしょう。

ぼくは、その線を引いたひとりの人に興味があります。この、建築に最初の一本の線を与えたひとりのことを、ここでは建築家と呼ぶことにしたいと思います。

建築家が引いた個性的な一本の線は、多くの人に何度もなぞられ、やがて均されていきます。均されたものは、個性を犠牲にする代わりに、安定した質と合理的な機能を獲得します。夢を失う代わりに、役に立つものとなるわけです。

建築が、ひとりの建築家の夢でいられるのは、実際に建てられる以前の、構想を描いたスケッチの段階までかもしれません。

建築の役に立つ側面よりも、夢を与える側面に注目したいと、そのように思って建築と付き合っています。そして、建築に夢をみて線を引く建築家の、その手のあとを辿りながら彼の真剣な想いに迫り、その後ろを歩む我々建築学徒の進路を探りたいと思っています。

夢という言葉を愛した人といえば、立原道造が思い浮かばれます。立原は詩人であると同時に、建築家でした。若くして亡くなったので、実際に建てた建築はほぼありません。しかし、建築を構想したスケッチは、のこした詩と同じくらいたくさんあるのです。立原は紛れもなく建築家だったのです。

こんなことを考えながら、3年ほど前に『立原道造の夢みた建築』という本を書きました。立原道造の手のあとを追ううちに、彼と親交のあった同時代の他の建築家の仕事をも追うこととなりました。立原は戦前に亡くなってしまいましたが、彼と同世代の建築家たちは、戦後の日本を復興させ、高度に成長させ、飽和させることに大いに貢献されました。

彼らの仕事の成果のなかに、今のぼくは暮らしているんだと、そんな風に思うことが少なくありません。同じ人間であり、同じ分野を志す先人たちが一体何を見て、何を知り、どんなことに感動してぼくの暮らしの土台をつくってくれたのか、気になって仕方がありません。

人がなにかを為そうというとき、その為すべきことの選び方や成り方には、幼いころの経験・素養が否応なく影響するものなのではないか、そのように考えています。つまり、建築家たちがその建築をその場所にその姿でつくるに至るには、建築を学ぶ以前の、幼少期の様々な記憶が原風景となっているのではないかと、そんな視点で先の本はまとめています。 

さて、偉大なる先人たちから学んだこのような視点で自らを省みたとき、はたしてどんな惨めな姿が露わとなるのでしょうか。いまのぼくの職業や、仕事のしかた、関心のある分野などは、あるいは専門教育を受けた以前の、無目的に感じたこと、体験したことが尾を引いて決まったことなのではないかと、そんな忌まわしい興味が湧いてきてしまいました。

小学校の卒業アルバムに、各々が将来の夢を書くページがありました。ああいうものはいつから書かれるようになったのでしょうか。野球選手とか、総理大臣とか、お嫁さんとか、そういう類の夢を、皆が書いていました。

しかし、果たしてこれらは、夢を問われての回答としてふさわしいでしょうか。夢とはなんでありましょうか。

夢と聞いて、小学生の多くは、どんな人格に成長したいか、ではなく、どんな職業に就きたいか、を思っているのです。就職をすることが人生の目的であるかのような刷り込みが、小学校卒業の時点ですでに十分に行われているということでしょう。なんとも夢のない話ではありませんか。

かくいうぼくは、この卒アルに「毎日寝て過ごす人」と書きました。人生をずいぶんとナメていたのでしょう。もしくは、中学受験のための、殴る、蹴る、怒鳴るが日々繰り返される地獄のようなスパルタ訓練に耐えきれず、ひどく疲れていたのかもしれません。

「毎日寝て過ごす」とは、決して、毎日じっとなにもせずに人生の終わりが来ることをただひたすらに待っていたい、ということを意味するものではありません。誰の役にも立たない無駄で豊かなまどろみのなかで、いつまでもずっと悩ましく幸せな夢をみていたいと、そんなことを願っていたのだと思います。

さて、ひねたぼくは、この卒アルの「将来の夢は何か」との問いに対してもうひとこと、「もしくは、建築家」と書き加えていました。結局ぼくも、刷り込みの果たされた夢のない小学生だったのです。

あるいは、スパルタ訓練の賜物である、いかに殴られず、蹴られず、怒鳴られないようにすべきか、との危険回避力が反射的に働いたのかもしれません。

どうせ「毎日寝て過ごす人」なんて書いても、ふざけているとして、誰もまともに取りあってくれないだろう、いや、下手をすれば、「人間は働くために生まれてきたのであって、学校とは正しい社会の構成員を育てる場なのだから、将来の夢を問われたら、どのような立場から社会の役に立ちたいかを答えるべきなのであって、毎日を寝て過ごすなどという生産性のない生き方を夢みるなどもってのほか」なんて具合に、いかにも現実的で味気のない先生らしい先生方から愚かしく叱咤される可能性すらあるなあと杞憂し、ここは俗物的に、先生方の喜びそうな、立派な職業の類でも書いておくべきなのだろうな、などとおもねってのことだったのかもしれません。

数ある立派なように思える職業のなかから「建築家」を選んで書き加えたのは、単純に、親父が建築設計で飯を食っていて、しかもそれなりに楽しそうに仕事をしていたから、ついでにいえば、レゴで遊ぶのが好きだったからというだけの、他愛もない理由からでした。

いずれにしても、夢も覇気も可愛げもない、まったくやさぐれた小学生であったわけです。

そのような人格が形成された要因には、あの地獄のような中学受験生活があったことは言うまでもありません。

小学生などというものは、本来、のびのびと遊びながらいろいろなことに少しずつ気づければ、それで十分であると思われます。

ふと、ぼくの通った都内某公立小学校のいまの教育目標を確認してみました。そこには、「心身ともに健康で、互いに協調しながら、国際社会をたくましく生きる児童を育成する」との言葉が掲げられています。ほかの学校もだいたい同じようなものでしょう。そして、おそらく、ぼくが小学生だったころにも同じような教育目標が掲げられていたはずです。国際社会はまだあまり意識されていなかったとは思いますが。

元気に、仲良く、やさしく、たくましく。概ね、このようなことが小学生には目指されるべきであると、大人はそう考えているわけです。そこには、競争などという概念はまったく存在していないのです。

しかし、中学受験は違います。競争なのです。他人を蹴散らして、合格を勝ち取りに行く。まさに戦です。受験生は戦士でなければなりません。しかし、仲良く、やさしく、と生ぬるい目標のもとに育まれた児童に競争をさせるのは容易ではありません。

そんなやわな小学生を戦士に変える一番手っ取り早い方法は、暴力とそれによる恐怖によって支配し、強制的に競争をさせることです。軍隊さながらの過酷な教練を受けたぼくは、元来の注意散漫で忍耐力の著しく低い気質を否応なく克服し、無駄な知識を豊富に蓄え、おまけに尿意・便意を長時間にわたって我慢する技すらも身に付けることに成功しました。

そして、無事に第一志望校にも合格し、中学生となったぼくを待ち受けていたのは、燃え尽き症候群とよばれる、無気力、無関心、劣情と狂気に満ちた堕落と自己嫌悪に塗れた日々でした。抑圧感と充実感で疲弊した日々には戻りたくはないが、このままでもいけない、そのように思って日々、未来の自分への諫言を書き連ねておりました。あまり幸せな日々だったとは言えない日々を過ごしたのでした。

それでも、ぼくは、中学受験をしなければよかったとは思っていません。少なくともぼくという人格を形成している一大事件として、中学受験は、ぼくにとっての大切な原風景であるように思います。前向きにとらえれば、中学受験をしたことで、競争のくだらなさを知り、独自性の尊さに気づけたわけですし、なによりも、小学生の柔らかい脳みそで暗記しまくった年号や人名、事件や条文などの詰込み知識のほとんどは、今でも忘れることなく定着し続けています。

建築スケッチから建築家の思想を考えようとする研究は、その人のその時々の喜びや悲しみに想いを馳せ、同時代の世俗の状況を鑑みながら、建築図を読み解き、言説を拾い、一体人生とはなんなのかとあてもなく問い続ける作業によって行われます。

ぼくの中学受験は、喜びも悲しみもすべての感情を失い、世俗の状況から隔離され、ただひたすらに図版をにらみ続け、用語を覚えることにエネルギーを注ぎ、一体人生とはなんなのかとあてもなく問い続けることに終始したものでした。

こうして思い返せば、どうやら今取り組んでいる研究は、あの頃に得られなかったものを得ようとしつつ、同時に、あの頃に培ったものを生かそうとの試みであるようです。

ぼくにとっての研究は、失われた小学生時代を取り戻す作業なのかもしれません。ある意味で中学受験は、ぼくにとって壮大な時間の無駄であったと思います。あるいは、この苦行の先には明るい将来が約束されているはずとの幻想に支えられた日々だったかもしれません。無駄と幻想、言い換えれば、役に立たないことと夢を見ること、やはりこのふたつに支えられた日々だったように思います。

さて、幸か不幸か、「毎日寝て過ごす人」との夢は、その言葉通りには、いまだ夢であり続けてしまっています。しかし、「誰の役にも立たない無駄で豊かなまどろみのなかで、いつまでもずっと悩ましく幸せな夢をみていたい」との意味では、実は起きながらにして少しずつ叶えられているのかもしれません。

歳を重ねるごとに現実が夢を圧迫しがちではありますが、これからも無駄を重ね、幻想を抱きながら、役に立たないことを学び、建築に夢をみ続けたいと思います。