『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』を観て

2018/07/03 種田元晴



 よい建築・都市をつくることとは、複雑な空間条件を巧みに整理整頓することである、と試しに考えてみたい。少なくとも、この映画をみるにあたっては、この視座に立って建築・都市を考えざるを得ない。

 整理整頓をすることと、単純化することは、必ずしも同義ではない。たしかに、状況の整理整頓には、単純化が必要である。しかし、どの程度整理整頓するのか、という問題がある。その程度に応じて、何を捨て、何を顕現させるのか、その選択の仕方は、実に複雑なものである。

 人間は複雑な生き物である。短絡な整理整頓による建築・都市計画は、人間のための空間から、人間を排除してしまう。整理整頓は、「巧み」に行われなければならない。

 この物語は、一見無秩序に見えるスラムの撤去による住環境の均質・清潔化と高速道路の網羅による物流の加速化を是とするモダニスト、ロバート・モーゼス(1888-1981)と、そんな短絡的な整理整頓を暴力とみなして、人々の活気ある営みが複雑な秩序によって形成されていることを、一市民の側から、ずば抜けた観察力と説得力をもって徹底的に糾弾するジェイン・ジェイコブズ(1916-2006)の対立を、ジェイコブズの側にたって描いたものである。両者の対立は、いわば、鳥の目(神の目)で都市を見る者と、虫の目で都市を見る者による、異なる正義の衝突であった。

 鳥の目で高く遠くからものをみる者には、細部は目に入らない。しかし、その細部に身を置く者は、その細部こそが、複雑な全体を活動せしめる源であることを知っている。優れた建築に優れたディテールが存在するように、優れた都市にも優れディテールが必要なのである。では都市における優れたディテールとはなにか。これをジェイコブズは人の多様な暮らしそのものであると説く。多様で複雑な営為には、一見無秩序なようで、そこに暮らしが成り立たっている限り、そこには複雑な秩序が存在しているのだという。

 モーゼスらの選んだ正義は、そこに存在する優れたディテールを見極めることではなかった。ディテールから目を背け、煩雑なディテールが一見まるでないかのような、実に大雑把な単純化によってわかりやすい秩序を導き出すことであった。

 そもそも、モーゼスを鼓舞したアメリカの高層住宅の論理は、ル・コルビュジエの現代都市計画に触発されたものであったという。

 コルは空から飛行機でパリの街を眺め、ひとこと、「汚い」と言ったという。サン=テグジュペリとともにブエノスアイレスを飛行し、コルは氾濫し全てを呑み込む大河の力に震えた。この抗い難い自然を、抗い難いからこそ、人工によって乗り越えたいとの野望が燃えたぎったのだった。

 パリの街を覆い尽くす、抗い難い人々の有機的な活力は、コルにとっては自然そのものであったことだろう。上空から荒ぶる人の波をみたコルは、是が非でも混沌としたこの自然を、人工によって制御しきってやりたいと思ったにちがいない。

 劇中、アメリカでは、コルの計画にあった高層のオフィス棟を住居と誤解し、その誤解のままに高層住宅を建ててしまった、とあった。直接の契機は、1939-40年のニューヨーク万博でのGMによるアトラクション「フューチュラマ」であったという。「フューチュラマ」は、1960年代の未来を想定した、高層ビル群のあいだをオートメーション化された高速道路のネットワークを、自動制御の車に乗って体感するというもの。自動化こそいまだ実現の途上にあるが、ジオラマ展示された未来風景は1960年代、現実のものとなる。

 ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』を著したのは1961年だった。ジェイコブズは、「フューチュラマ」の世界観が功罪あいまって具現化した時代を生き、自動車のための道路ではなく、人のための歩道こそが都市を活気づかせ、多様性を生み、安全にし、豊かにすると説いたのだった。

 モーゼスとジェイコブズの戦いは1950年代よりはじまった。

 最初の戦いは、1955年、ワシントン・スクエア公園を貫くように5番街の大通りが延伸されるとの計画が持ち上がったときのことであった。100年続く皆の憩いの場であり、子どもの遊び場としても親しまれてきたコミュニティの核を奪われることにジェイコブズは猛反撃、怒れる母らを団結してこれを阻止した。モーゼスら開発当局側にとっては、どれだけ抗おうが所詮はただの民衆、声など聞く必要はない、とたかをくくっていただけに、この敗北は大きなショックであったという。

 この後、ジェイコブズを黙らせねばならないとの力が働きはじめる。やがてジェイコブズ自身が住み、都市の理想像であると主張したウェスト・ビレッジが再開発対象とされてしまう。しかし、これすらも「主婦」の力モーゼスが公の場でつい、所詮反対しているのは専門的なことなどなにも知らぬ主婦、と、口走ってしまったことを逆手にとって、主婦たちに、自らが愚弄されているのだとの思いを抱かせ、蜂起させた力)によって跳ね返す。

 奇しくも大江宏は1962年、「建築の本質」の論考のなかで「建築は鶏舎ではない」との論を展開する。人がくねくねと移動することで空間体験が移り変わってゆくプロセッションの重要性も説く。目的地まで素早く真っ直ぐにたどり着けることにはなんの面白みもない。自動車交通はなんのためのしくみであろうか。効率化はなんのために行われるのだろうか。効率化は加速によって達成される。人はなんのために加速したがるのか。すばやく届けたいのは、すばやく仕事を片付け楽をしたいからだったはずなのに、スピードが上がると仕事が増えてより忙しくなるのであった。しかし一度加速すると、加速のスパイラルからは抜けられない。ついに人が死んで、それでやっと、やめようか、となるのだった。最近のことである。半世紀も前の警鐘に、未だにハッとさせられるのである。

 大江の、建築は鶏舎であるまじき、との思いは、プルーイット・アイゴー団地の爆破を予期している。プルーイット・アイゴー団地は、1951年から1954年にかけて、スラムの撤去と住環境改善を目指して、日系人ミノル・ヤマサキ(1912-1986)によって設計された。劇中でも語られるように、スラムを一掃して、低所得者を紋切型の無機質で均質で潔癖な空間に押し込めることで、貧者は幸福になるはずであると信じられて取り組まれたプロジェクトであった。しかし、1972年に爆破解体される。

 大江宏は1956年の世界旅行時、アメリカでミノル・ヤマサキに会っている。大江新氏からの聞き取りによれば、大江宏は1954年の3月~海外出張をし、アメリカも訪れてそこでフィリップ・ジョンソンやミース・ファン・デル・ローエなどさまざまな建築家と会っているが、その手引きをしたのはおそらくヤマサキであったはずとのことである。

 また、1954年、ヤマサキは在神戸米国総領事館(現存せず/1956年日本建築学会賞作品賞受賞)を設計しているので、その頃にもしかしたら日本で大江宏とも知り合っていたのかもしれないとのことである。大江宏の設計した料亭「胡蝶」へも案内したことがあったはず、とのことである。

 大江宏とともにアメリカを旅行した元所員の高瀬隼彦(のち鹿島建設)は堀口捨己設計、大江宏監理によるサンパウロ日本館の現場の仕事を担当した後、ミノル・ヤマサキの事務所で働いたという(詳細は高瀬隼彦「タイムの表紙になった建築家:ミノル・ヤマサキ」芸術新潮159号(1963年3月)を今後要確認)

 大江はその後、ヤマサキに誘われて、高輪に近鉄が新たにつくろうとしていた「都ホテル」で共同するはずであった。しかし、実際には、外観をヤマサキが、内装と庭園は村野藤吾によって設計されることとなった。村野は、近鉄の仕事を多く手掛けていた。村野が起用されたのは、施主の意向によるものであったかもしれない(大江新氏聞き取り記録2014.11.27, 小川格氏注記による)。しかし、誘われていた大江宏からすれば、ヤマサキに裏切られたとの気持ちになってしまう。これ以来、ヤマサキと宏との関係は断絶した。

 大江宏には、団地が人間という労働力を効率よく生産する工場であるかのようにうつっていた。1950年代末のアメリカで起きたプルーイット・アイゴー団地は、まさに大江が危惧した近代鶏舎のごとき建築であっただろう。11階建てのI型平面の羊羹が33棟並べられ、そこに2870戸の世帯が収容された。

 死角の多い配置計画、侵入の容易な居住空間の計画、児童遊園等の外部空間のカット、スキップストップ(1,4,7,10階のみに停止するエレベータの設置)による不便なアプローチなど、スラムを整理することを第一義とし、住みやすさが後回しにされ、住居は単なる労働力の収容所となってしまった。やがて大江の警鐘の10年後、爆破された。劇中では、高層とした計画を単に横に寝かせるだけで、おそらく劇的に住環境はよくなっただろう、と語られた(ボアソナードタワーを倒すと、ちょうど55/58年館のようになる、との話をふと思い出した)

 なお、プルーイット・アイゴー団地が爆破された1972年、日本では高島平団地が竣工する。その立ち姿は、在りし日のプルーイット・アイゴー団地に生き写しである。入居が開始されてまもなく、高島平団地は自殺の名所として有名となった。スラムでもなんでもない、プルーイット・アイゴー団地に比べてはるかに治安のいい場所でも、このような建築は人を幸せにはできないことが露呈した。大江の危惧は杞憂に終わらなかった。

 人は、自らの環境に手を入れたくて仕方がない生き物である。手がまったく入っていない状態を「荒れている」と表現し、手入れが行き届いた状態を「美しい」と考える。ただし、手の入れ方が雑だと、足まで入ってしまって、「踏みにじる」ことになってしまう。

 この先、もしも計画者としてふるまうことがあるとすれば(そんな予定はないけれど)、その際には、正しく「手引き」ができるよう、踏みにじることなく、相手の差し出す手に、その手を差し伸べることを心がけたい。そのようなことを考えされた映画であった。