「農林水産省三番町共用会議所」の魅力
2019/9/17 種田元晴
大江宏による千代田区の作品といえば、なんでしょうか。
第一に挙げられるのは、もちろん、法政大学の一連の校舎でしょう。
こちらは、1953年につくられた、ネオンサインの映える、まさに、“ザ・近代建築”と呼ぶにふさわしい、白くて四角いガラスの箱の「大学院棟(53年館)」と、1955~58年につくられた、障子のようなカーテンウォールのファサードと、シェル構造のピロティ棟による至極の構成美でおなじみの「55/58年館」ですね。
まさしく大江宏の初期の代表作と呼ぶにふさわしいものでした。
しかし、「53年館」は2000年に取り壊されて、いまは跡地に26階建てのボアソナードタワーが建っています。そして、「55/58年館」の方も、ついに今年2019年3月いっぱいで閉鎖、解体がはじまり、2020年には姿を消すこととなりました。
ああ、どうして1950年代の近代建築は、こうも寿命が短いのでしょう。
一見、お金を稼げそうな豪華さがみあたらないからでしょうか。
まったく、経済性に魂を吸い取られた時代遅れな戦後成金たちにはつくづく嫌気がさしてきます。
などといっていても仕方がありませんから、その価値をどうにか啓蒙したいところです。
さて、そんななかで、実は千代田区には、もうひとつ、大江宏の手になる1950年代の近代建築が現存しているのです。
その名も、「農林省大臣公邸三番町分庁舎(現・農林水産省三番町共用会議所別館)」。
1956年、まさしく大江が法政大学を手掛けているそのさなかに、すぐ近くで実現されたものでした。
敷地は九段下の日本武道館のすぐ脇の、千鳥ヶ淵沿いです。
後ろには真っ赤な「イタリア文化会館」(設計:ガエ・アウレンティ、2005)が、隣にはガラス張りの「インド大使館」(設計:宮崎浩、2009)が建っています。
この土地は、もともとは山縣有朋の旧邸(設計:片山東熊、1885)があったところでした。
旧邸は戦災により焼失しましたが、その当時のお庭の跡と明治天皇の行幸碑が残されていることから、名所として毎年12月の初旬に一般公開されているようです。
昨年2018年には、実はお庭だけでなく、この大江宏の会議所別館をも一般公開されたのでした。
ガイドツアー形式での見学会を申し込んだのですが、私が参加した回には総勢60人近い方がいらして、その関心の高さに驚きました。
職員の方々も至るところに待機されて、来場者に対して、大変丁寧にご挨拶とご説明をくださいます。もちろん、無料公開なのですから、彼らはボランティアでこれをやっているわけです。
聞いてみると、職員の方々はこの建物の価値を高く評価されており、大いに愛されている様子でした。
そのおかげもあって、とても60年前の竣工とは思えないほど、当時の姿が良い状態で保たれています。
それにしても、この建築にはのちの大江の作品に通ずる意匠的特徴が随所に散りばめられており、大変興味深いです。
たとえば、ほぼ同時期に、同じく千代田区につくられた「法政大学55/58年館」とは、バルコニーの床パターンや細い円柱の使いかたなどが共通しています。
バルコニーの床パターンについては、「法政大学55/58年館」では、素材の切り替わり部分の目地に3ミリ幅の金属がしこまれていたのですけれど、こちらはなんとガラス。
しかもこれがまったく割れていないのです。
いかに大切に使われているかがよくわかります。
連続する列柱とバルコニーの取合いは、のちに大江宏の地中海への関心が意匠となってあらわれる頃の代表作のひとつである「茨城県公館」(1974)などに通じます。
由緒ある日本庭園と、列柱が外周にめぐらされた建築との対比などは、おなじく、大江宏が、「混在併存」を標榜し、「日本の伝統をつきつめていったら地中海にいきついちゃったよ」といわんばかりの頃に手掛けた豪邸「苦楽園の家」(1976)のそれによく似ています。
ともかく、見逃す手はない大変貴重な都内の50年代モダニズム建築です。
ついでに申し上げれば、隣に建つ本館(設計:農林省営繕課、1973)も、今となっては貴重な省庁自らの設計による純白で端正なインターナショナル・スタイルの秀作です。
さらに申し添えれば、正門側奥に建つ給水塔も貴重な遺構ですが、こちらは来年には取り壊されるとのことです。
同じ千代田区にありながら、愛され方のちがいによって命運を分かった2つの建築。
今年の年末は是非こちらへ訪れて、救われなかった「55/58年館」を偲ぼうではありませんか。
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農林水産省「令和元年度三番町共用会議所(旧山縣有朋邸庭園跡・別館)一般公開について」
こちらは、1953年につくられた、ネオンサインの映える、まさに、“ザ・近代建築”と呼ぶにふさわしい、白くて四角いガラスの箱の「大学院棟(53年館)」と、1955~58年につくられた、障子のようなカーテンウォールのファサードと、シェル構造のピロティ棟による至極の構成美でおなじみの「55/58年館」ですね。
在りし日の法政大学55/58年館
しかし、「53年館」は2000年に取り壊されて、いまは跡地に26階建てのボアソナードタワーが建っています。そして、「55/58年館」の方も、ついに今年2019年3月いっぱいで閉鎖、解体がはじまり、2020年には姿を消すこととなりました。
ああ、どうして1950年代の近代建築は、こうも寿命が短いのでしょう。
一見、お金を稼げそうな豪華さがみあたらないからでしょうか。
まったく、経済性に魂を吸い取られた時代遅れな戦後成金たちにはつくづく嫌気がさしてきます。
などといっていても仕方がありませんから、その価値をどうにか啓蒙したいところです。
さて、そんななかで、実は千代田区には、もうひとつ、大江宏の手になる1950年代の近代建築が現存しているのです。
その名も、「農林省大臣公邸三番町分庁舎(現・農林水産省三番町共用会議所別館)」。
農林水産省三番町共用会議所別館
1956年、まさしく大江が法政大学を手掛けているそのさなかに、すぐ近くで実現されたものでした。
敷地は九段下の日本武道館のすぐ脇の、千鳥ヶ淵沿いです。
後ろには真っ赤な「イタリア文化会館」(設計:ガエ・アウレンティ、2005)が、隣にはガラス張りの「インド大使館」(設計:宮崎浩、2009)が建っています。
この土地は、もともとは山縣有朋の旧邸(設計:片山東熊、1885)があったところでした。
旧邸は戦災により焼失しましたが、その当時のお庭の跡と明治天皇の行幸碑が残されていることから、名所として毎年12月の初旬に一般公開されているようです。
昨年2018年には、実はお庭だけでなく、この大江宏の会議所別館をも一般公開されたのでした。
ガイドツアー形式での見学会を申し込んだのですが、私が参加した回には総勢60人近い方がいらして、その関心の高さに驚きました。
職員の方々も至るところに待機されて、来場者に対して、大変丁寧にご挨拶とご説明をくださいます。もちろん、無料公開なのですから、彼らはボランティアでこれをやっているわけです。
聞いてみると、職員の方々はこの建物の価値を高く評価されており、大いに愛されている様子でした。
そのおかげもあって、とても60年前の竣工とは思えないほど、当時の姿が良い状態で保たれています。
庭園越しに望む
それにしても、この建築にはのちの大江の作品に通ずる意匠的特徴が随所に散りばめられており、大変興味深いです。
たとえば、ほぼ同時期に、同じく千代田区につくられた「法政大学55/58年館」とは、バルコニーの床パターンや細い円柱の使いかたなどが共通しています。
バルコニーの床パターンについては、「法政大学55/58年館」では、素材の切り替わり部分の目地に3ミリ幅の金属がしこまれていたのですけれど、こちらはなんとガラス。
しかもこれがまったく割れていないのです。
いかに大切に使われているかがよくわかります。
連続する列柱とバルコニーの取合いは、のちに大江宏の地中海への関心が意匠となってあらわれる頃の代表作のひとつである「茨城県公館」(1974)などに通じます。
由緒ある日本庭園と、列柱が外周にめぐらされた建築との対比などは、おなじく、大江宏が、「混在併存」を標榜し、「日本の伝統をつきつめていったら地中海にいきついちゃったよ」といわんばかりの頃に手掛けた豪邸「苦楽園の家」(1976)のそれによく似ています。
ともかく、見逃す手はない大変貴重な都内の50年代モダニズム建築です。
ついでに申し上げれば、隣に建つ本館(設計:農林省営繕課、1973)も、今となっては貴重な省庁自らの設計による純白で端正なインターナショナル・スタイルの秀作です。
本館(設計:農林省営繕課、1973)
さらに申し添えれば、正門側奥に建つ給水塔も貴重な遺構ですが、こちらは来年には取り壊されるとのことです。
給水塔と車庫
同じ千代田区にありながら、愛され方のちがいによって命運を分かった2つの建築。
今年の年末は是非こちらへ訪れて、救われなかった「55/58年館」を偲ぼうではありませんか。
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農林水産省「令和元年度三番町共用会議所(旧山縣有朋邸庭園跡・別館)一般公開について」