都市美をめぐる前川の矜持
2019/7/29 種田元晴
1965年、前川は東京海上ビルの設計依頼を受ける。その2年前に建築基準法が改正されて、容積地区制度が創設され、31m(100尺)の絶対高さ制限が撤廃、容積率規制が導入されたことにより(さらにその2年前の1961年に特定街区地区が創設され、その時に容積率制限が登場する。なお、1970年には全国で100尺規制は撤廃され、容積率が全面導入される。このあたりの顛末に関しては、大澤昭彦「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察」土地総合研究(16号), pp.51-61, 2008に詳しい)、超高層ビルの建築が可能となった背景がある。
当初、東京海上ビルは130mの日本初の超高層ビルとなるはずであった。しかし、1966年10月、確認申請が提出された直後に、皇居前にあってこれを見下す建築は美しいことではないという「美観論争」が巻き起こり、結果として申請は不許可とされてしまった。その後、平面計画を変えずに高さを低くして設計し直し、1970年になって認可が下りる。その間、1968年に霞が関ビルが竣工し、こちらが日本初の超高層となるのであった。
前川國男は、この計画に対する批判を受けて、1966年の暮れに、「再び都市美について」というパンフレットをつくる。
そのなかでの前川の主張を簡単にまとめると次のようなもの。
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古代都市の美しさというのは、廃墟の美しさである。しかし、都市美というからには、そこにはまず人間生活の充実感がなければならない。そのためには、機械文明とその体制によって自然と人間とが引き裂かれてはならない。
一方で、都市の構築物自体の美もまた必要である。そこには「永遠性」が担保されていることが重要である。けれど、工業化された建築物の実体に「永遠性」を求めることなどできない。
ならば、実体ではなく空間のほうの美を追求すべきである。例えば、軒高がぴしっと揃っていることは、この空間美に通ずるといえるだろう。
一方で、「そろったものの美しさに対して破調の美しさというものもある」。その意味では、100尺の絶対高さの規制などは、「破調の美しさ」を許さない「創造の圧殺」である。それはすなわち、「都市そのものの圧殺」に他ならない。
そもそも、「「生きる」ということは現在の超越」なのである。
もはや工業化に毒された現代社会に「永遠性」は求めようがない。そうであれば、統制的な調和の美のみをよしとするのは不健全である。ましてや、官僚が条例によって美観を創造することなどありえない。
都市美を創造する担い手は、「自由な批判精神」を持つ者でなければならない。
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これに続いてあくる年、1967年の正月に、建設産業新聞「超高層ビルと都市再開発」を発表する。
その趣旨は以下のようなものだ。
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都市の再開発には、「今日的な社会の要求」が必ずある。しかし、その要求とは、「経済的価値の増進」であってはならならない。それは、「人間の精神的価値」の増進でなければならない。
しかし、機械文明の便利さに踊らされた現代人は、「太陽や緑の樹木を売り払って」まで自動車やテレビを手に入れようとしてはいまいか。浪費や受け身な便利さの先には、人間の退廃と無気力が待っている。
西洋を追いかけ、その水準に達したといっていい今こそ、「精神と自然の荒廃を回復するためにこそ、都市の再開発に取り組むべきであろう」。
しかし、「われわれは一度手に入れた文明を再び手放すわけにはいかない」。とはいえ、「「技術」は本来「思想」をもたない」ものである。つまり、技術を制御する人間自体の「現代文明の体制にとらわれない自由な批判の精神」こそが肝要なのである。
その精神を持った人間こそが「都市美創造の旗手となりうる」のである。
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この二つの論考の主旨は一致している。
後者は、暮れにしたためた「再び都市美について」を、新聞記事用に主張をコンパクトにまとめたものといっていい。
このふたつの論文を解題している内田祥士は、つねに日本という後進国が近代を以下に受け入れ、そのコンプレックスを抱えたままに現代に至っているかを常に問い、「モダニズムの後姿」から「今の表情」をうかがっている人物である。
内田は解題のなかで、前川が「「西欧化」の次の段階を、戦前への反省の上に立って、戦後という時代の中でどのように捉えるべきかについて、より積極的に、正面から問いかけようとしている」ことを評価している。この点は、内田から常にこのような話を聞かされつづけた筆者には大変興味深い。
また、しかし前川がその問いかけを試みながらも、指針を明確に示していない点について、内田は「今日においてさえ、解きがたい難問であり続けている」と述べて、前川の「問い」が未だ我々の時代においても課題であり続けていることを指摘している点も興味深い。
このような問題意識を抱えて、内田は後年に『営繕論 ―希望の建設・地獄の営繕』(NTT出版, 2017)を書く。
その中には、前川の「問い」をさらに色濃いものとした見解がちりばめられつつ、しかしやはり指針は示しようもないことも同時に表されていた。読後感は絶望的である。
ところで、超高層建築の先駆者である池田武邦(1924-)は、「超高層の目的は、都市の過密に対して人間が立つ大地にいかに緑や太陽を獲得するかである」(池田武邦『大地に建つ』ビオシティ, 1998, p.13)と語っていた。
これを読んだとき、筆者は、「そうだったのか、池田にも前川同様の問題意識があったのか」ということに感激した。このことを筆者は、『営繕論』執筆中の内田に問うたことがあった。池田もこう述べていますよ、と。
しかし、内田の答えは「種田君、人はね、あとになってからの気づきを糧に、それ以前の自分についても、あのとき私はこう考えていた、と正当化してしまうことがときとしてあるんだよ。池田さんが過去の自分を正当化しているはずだとは思わないけれど、しかし、ほんとうに超高層をつくっていたまさにそのときに、池田さんにそのような問題意識があったのかどうかについては、ちゃんと公開された当時の資料に基づいて考えなければならないよ」というものであった。
たしかに、池田のこの言葉は、自らが超高層に取り組んでいた頃から30年経った後に語られた言葉であった。まさに目の前に超高層を実現しようとしていたそのときに、果たして池田がこのように考えられていたかは、そう考えていたはずだということが示せる資料を見つけられていない以上、たしかに定かではない(いまだ宿題のままである)。
一方で、前川が抵抗した事実を、池田が全く知らなかったとも思えない。しかし、池田の野心は、前川の矜持とはまた違ったところにあったのかもしれない。おなじく、日本で初めての超高層の実現に奔走したふたりの建築家の想いにどのようなちがいと共通点があったのか、そんなこともちゃんと考えてみたいと、そのように思った次第である。
当初、東京海上ビルは130mの日本初の超高層ビルとなるはずであった。しかし、1966年10月、確認申請が提出された直後に、皇居前にあってこれを見下す建築は美しいことではないという「美観論争」が巻き起こり、結果として申請は不許可とされてしまった。その後、平面計画を変えずに高さを低くして設計し直し、1970年になって認可が下りる。その間、1968年に霞が関ビルが竣工し、こちらが日本初の超高層となるのであった。
前川國男は、この計画に対する批判を受けて、1966年の暮れに、「再び都市美について」というパンフレットをつくる。
そのなかでの前川の主張を簡単にまとめると次のようなもの。
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古代都市の美しさというのは、廃墟の美しさである。しかし、都市美というからには、そこにはまず人間生活の充実感がなければならない。そのためには、機械文明とその体制によって自然と人間とが引き裂かれてはならない。
一方で、都市の構築物自体の美もまた必要である。そこには「永遠性」が担保されていることが重要である。けれど、工業化された建築物の実体に「永遠性」を求めることなどできない。
ならば、実体ではなく空間のほうの美を追求すべきである。例えば、軒高がぴしっと揃っていることは、この空間美に通ずるといえるだろう。
一方で、「そろったものの美しさに対して破調の美しさというものもある」。その意味では、100尺の絶対高さの規制などは、「破調の美しさ」を許さない「創造の圧殺」である。それはすなわち、「都市そのものの圧殺」に他ならない。
そもそも、「「生きる」ということは現在の超越」なのである。
もはや工業化に毒された現代社会に「永遠性」は求めようがない。そうであれば、統制的な調和の美のみをよしとするのは不健全である。ましてや、官僚が条例によって美観を創造することなどありえない。
都市美を創造する担い手は、「自由な批判精神」を持つ者でなければならない。
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これに続いてあくる年、1967年の正月に、建設産業新聞「超高層ビルと都市再開発」を発表する。
その趣旨は以下のようなものだ。
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都市の再開発には、「今日的な社会の要求」が必ずある。しかし、その要求とは、「経済的価値の増進」であってはならならない。それは、「人間の精神的価値」の増進でなければならない。
しかし、機械文明の便利さに踊らされた現代人は、「太陽や緑の樹木を売り払って」まで自動車やテレビを手に入れようとしてはいまいか。浪費や受け身な便利さの先には、人間の退廃と無気力が待っている。
西洋を追いかけ、その水準に達したといっていい今こそ、「精神と自然の荒廃を回復するためにこそ、都市の再開発に取り組むべきであろう」。
しかし、「われわれは一度手に入れた文明を再び手放すわけにはいかない」。とはいえ、「「技術」は本来「思想」をもたない」ものである。つまり、技術を制御する人間自体の「現代文明の体制にとらわれない自由な批判の精神」こそが肝要なのである。
その精神を持った人間こそが「都市美創造の旗手となりうる」のである。
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この二つの論考の主旨は一致している。
後者は、暮れにしたためた「再び都市美について」を、新聞記事用に主張をコンパクトにまとめたものといっていい。
このふたつの論文を解題している内田祥士は、つねに日本という後進国が近代を以下に受け入れ、そのコンプレックスを抱えたままに現代に至っているかを常に問い、「モダニズムの後姿」から「今の表情」をうかがっている人物である。
内田は解題のなかで、前川が「「西欧化」の次の段階を、戦前への反省の上に立って、戦後という時代の中でどのように捉えるべきかについて、より積極的に、正面から問いかけようとしている」ことを評価している。この点は、内田から常にこのような話を聞かされつづけた筆者には大変興味深い。
また、しかし前川がその問いかけを試みながらも、指針を明確に示していない点について、内田は「今日においてさえ、解きがたい難問であり続けている」と述べて、前川の「問い」が未だ我々の時代においても課題であり続けていることを指摘している点も興味深い。
このような問題意識を抱えて、内田は後年に『営繕論 ―希望の建設・地獄の営繕』(NTT出版, 2017)を書く。
その中には、前川の「問い」をさらに色濃いものとした見解がちりばめられつつ、しかしやはり指針は示しようもないことも同時に表されていた。読後感は絶望的である。
ところで、超高層建築の先駆者である池田武邦(1924-)は、「超高層の目的は、都市の過密に対して人間が立つ大地にいかに緑や太陽を獲得するかである」(池田武邦『大地に建つ』ビオシティ, 1998, p.13)と語っていた。
これを読んだとき、筆者は、「そうだったのか、池田にも前川同様の問題意識があったのか」ということに感激した。このことを筆者は、『営繕論』執筆中の内田に問うたことがあった。池田もこう述べていますよ、と。
しかし、内田の答えは「種田君、人はね、あとになってからの気づきを糧に、それ以前の自分についても、あのとき私はこう考えていた、と正当化してしまうことがときとしてあるんだよ。池田さんが過去の自分を正当化しているはずだとは思わないけれど、しかし、ほんとうに超高層をつくっていたまさにそのときに、池田さんにそのような問題意識があったのかどうかについては、ちゃんと公開された当時の資料に基づいて考えなければならないよ」というものであった。
たしかに、池田のこの言葉は、自らが超高層に取り組んでいた頃から30年経った後に語られた言葉であった。まさに目の前に超高層を実現しようとしていたそのときに、果たして池田がこのように考えられていたかは、そう考えていたはずだということが示せる資料を見つけられていない以上、たしかに定かではない(いまだ宿題のままである)。
一方で、前川が抵抗した事実を、池田が全く知らなかったとも思えない。しかし、池田の野心は、前川の矜持とはまた違ったところにあったのかもしれない。おなじく、日本で初めての超高層の実現に奔走したふたりの建築家の想いにどのようなちがいと共通点があったのか、そんなこともちゃんと考えてみたいと、そのように思った次第である。