エスプラナードと「建築の本質」
2019/6/10 種田元晴
松隈洋編『前川國男 現代との対話』(六耀社, 2006)を読んだ。2005年、前川國男の生誕100年を記念して催された展覧会に合わせて企画された連続セミナーの記録である。
日本戦後近代建築の巨人・前川を様々な切り口から語り尽くすのは、富永譲、三沢浩、藤森照信、林昌二、平良敬一、野沢正光、内藤廣、鬼頭梓、松山巖、布野修司、槇文彦、鈴木博之、大谷幸夫、そしてコーディネーターである松隈洋の14名。直接に建築の手ほどきを受けた方だけでなく、下の世代から前川を刺激し前川に鼓舞されてきた業界の雄らによる前川論が多彩に展開された読み応えのある一冊だった。
さて、一建築家の代表作が、いつも晩年のものであるとは限らない。しかし、一建築家の集大成として、やはり晩年のものにその到達点をみたい。前川にとっては、経験豊かにして気力・体力に優れた70代の頃に手掛けた「熊本県立美術館」が、やはりその集大成であったと呼ぶにふさわしい。ということで、ここでは、「熊本県立美術館」をめぐる当該セミナー講師各位の言説に着目したいと思う。
まずは巻頭、富永による「ル・コルビュジエの建築的プロムナードを越えて」。「建築的プロムナード」は、建築をただの物理的なハコとみなさず、人が移動することによって場面が展開してゆく組織と見なす概念である。富永は、建築的プロムナードこそがそのル・コルビュジエの建築におけるもっとも重要な概念だという。
そうしてコルの代表的な作品における「建築的プロムナード」がひもとかれてゆく。とくに、その垂直方向の場面展開は、いずれも反時計回りの螺旋状に上昇してゆくようになされる特徴がある、との指摘は興味深い。そういえば、戦中の若き前川の手掛けた自邸の、玄関を上がって居間へ至り、更にメザニンへと続くアプローチにも、コルビュジエばりの反時計周りに垂直展開する「建築的プロムナード」が見られる。この頃の前川にはまだ、実際に現地で体験したコルビュジエの空間の感覚へ憧れる想いが色濃く自身の内面を支配していたのだろう。
やがて壮年期をむかえ、1966年の「埼玉会館」以降の打ち込みタイルによる建築が展開される頃には、ややコルビュジエとは違う方向へと向かってゆく。焼き物への関心とともに、日本的な散策性を求めた、建物へと短絡的にアプローチするのでない、親自然的といえるような水平方向への空間展開が意識されはじめる。
富永は、前川最晩年の「熊本県立美術館」に至っては、もはや経験せねば得られない、写真になど決しておさめようもない、壁や段差によって水平にも垂直にも展開する、「淀み」をもった散策性によって、「風景の舞台」あるいは「壁を巡る旅の空間」といえる場面がつくられるところまでいったことを高く評価している。
それに関連して、「埼玉会館」の「エスプラナード」については、通行空間としての「プロムナード」であるばかりでなく、むしろ滞留空間としての側面をもつ場面の展開を演出することに前川の意識が向かっていることを指摘している点は、実に興味深い。
これを、これまた富永の好む映画に例えて述べるならば、「プロムナード」は『イージーライダー』のように広大なフロンティアを連続して駆け巡る欧米的なロードムービーのごときイメージ、「エスプラナード」はカメラが座位に低く固定されてこぢんまりとした内部空間の連続(富永はルイス・カーンの「ルーム」の概念を本文中でも持ち出していた)が不連続に映し出される『東京物語』のごとき場面展開をそれぞれ想起させる空間が意図されているのだろうかと、そんなふうに語感のちがいを感じた。
それにしても、この富永の講演録を読んでいると、大江宏が1962年に書いた「建築の本質」の文章が想起されて仕方がない。
大江の「建築の本質」には、日本が伝統的に持つ習慣や感性を賛美し、近代の短絡的合理性や質よりも量を重視することの危うさに警鐘を鳴らし、「住む人の生活の「心」に関する要素が軽視、あるいは時として全く度外視されたまま家が作られてゆく点」が問題だと指摘している論考である。
このなかで大江は、「昔も今も日本の家は人の心の移り変りを一番大切なものとして尊重して来た。門から家に至る過程も一直線に真中から飛び込むというようなぶっきら棒な入り方は最も拙劣で忌わしいもの」と書いている。さらに、日本の家の特徴について「人の歩むにつれて視点は刻々に移動し、視界が流動し、変転するのは廻遊式庭園の場合だけに限らず、家の中のデザインでも全く同じことである」とも書いている。
まさにル・コルビュジエの唱えた「建築的プロムナード」を踏まえて、前川が日本の風土・風景を意識して「エスプラナード」の水平展開へと昇華させたことに通じている。しかも、大江の論(1962年)は前川の「エスプラナード」(1966年)よりも早い。
ということは、前川の側が、大江から刺激を受けて、「建築的プロムナード」を「エスプラナード」へと昇華させるに至ったのかもしれない。大江は前川に食事に連れて行ったもらったり、日本建築家協会の会長を引き継がれたりと、近しく交流のある間柄だった。
もちろん、大江の語る「日本の家」の特徴は、大江だけが理解していたというものではないし、前川だって「日本の家」が元来どのようなものであったかなどは百も承知なはずである。しかし、問題は、その当たり前の事実であった伝統的価値観が、新しい価値観である近代の、その瑕疵を補う可能性のあるものであったことに気付いたことである。
前川の場合、近代建築の薄くて耐久性の低い壁が日本の風雨の樣に合わないことから開発した打ち込みタイル(1964年の紀伊国屋書店以降用いられる)、コルビュジエの建築的プロムナードに日本的な「淀み」と回遊式庭園のような水平展開を加味したエスプラナードなどがなされる1960年代半ばがその時だったのである。
大江にしても、法政大学の一連の建築(55/58年館裏側のスロープにはコルビュジエの垂直的な「建築的プロムナード」のあとが見て取れるか)を通じて、インターナショナル・スタイルの建築をまさにそのままに日本で実現しようとの宿願を果たしたのち、やはり、インターナショナル・スタイルと日本の風習とが必ずしも相容れないことを反省して、しかし、丹下のように伝統を近代の実現のための「素材」として消費してしまうことなく、折り合いをつけようと悩んだのだった。
風土に目を向け、伝統を考えつつ、しかし近代を根付かせることを考えたのは、たしかにこの日たりだけではない。みんなやっていた。しかし、こと、「建築的プロムナード」から「エスプラナード」への展開に着目すると、前川と大江には、ひとかたならぬ共感を見出すことができるのである。
日本戦後近代建築の巨人・前川を様々な切り口から語り尽くすのは、富永譲、三沢浩、藤森照信、林昌二、平良敬一、野沢正光、内藤廣、鬼頭梓、松山巖、布野修司、槇文彦、鈴木博之、大谷幸夫、そしてコーディネーターである松隈洋の14名。直接に建築の手ほどきを受けた方だけでなく、下の世代から前川を刺激し前川に鼓舞されてきた業界の雄らによる前川論が多彩に展開された読み応えのある一冊だった。
さて、一建築家の代表作が、いつも晩年のものであるとは限らない。しかし、一建築家の集大成として、やはり晩年のものにその到達点をみたい。前川にとっては、経験豊かにして気力・体力に優れた70代の頃に手掛けた「熊本県立美術館」が、やはりその集大成であったと呼ぶにふさわしい。ということで、ここでは、「熊本県立美術館」をめぐる当該セミナー講師各位の言説に着目したいと思う。
まずは巻頭、富永による「ル・コルビュジエの建築的プロムナードを越えて」。「建築的プロムナード」は、建築をただの物理的なハコとみなさず、人が移動することによって場面が展開してゆく組織と見なす概念である。富永は、建築的プロムナードこそがそのル・コルビュジエの建築におけるもっとも重要な概念だという。
そうしてコルの代表的な作品における「建築的プロムナード」がひもとかれてゆく。とくに、その垂直方向の場面展開は、いずれも反時計回りの螺旋状に上昇してゆくようになされる特徴がある、との指摘は興味深い。そういえば、戦中の若き前川の手掛けた自邸の、玄関を上がって居間へ至り、更にメザニンへと続くアプローチにも、コルビュジエばりの反時計周りに垂直展開する「建築的プロムナード」が見られる。この頃の前川にはまだ、実際に現地で体験したコルビュジエの空間の感覚へ憧れる想いが色濃く自身の内面を支配していたのだろう。
やがて壮年期をむかえ、1966年の「埼玉会館」以降の打ち込みタイルによる建築が展開される頃には、ややコルビュジエとは違う方向へと向かってゆく。焼き物への関心とともに、日本的な散策性を求めた、建物へと短絡的にアプローチするのでない、親自然的といえるような水平方向への空間展開が意識されはじめる。
富永は、前川最晩年の「熊本県立美術館」に至っては、もはや経験せねば得られない、写真になど決しておさめようもない、壁や段差によって水平にも垂直にも展開する、「淀み」をもった散策性によって、「風景の舞台」あるいは「壁を巡る旅の空間」といえる場面がつくられるところまでいったことを高く評価している。
それに関連して、「埼玉会館」の「エスプラナード」については、通行空間としての「プロムナード」であるばかりでなく、むしろ滞留空間としての側面をもつ場面の展開を演出することに前川の意識が向かっていることを指摘している点は、実に興味深い。
これを、これまた富永の好む映画に例えて述べるならば、「プロムナード」は『イージーライダー』のように広大なフロンティアを連続して駆け巡る欧米的なロードムービーのごときイメージ、「エスプラナード」はカメラが座位に低く固定されてこぢんまりとした内部空間の連続(富永はルイス・カーンの「ルーム」の概念を本文中でも持ち出していた)が不連続に映し出される『東京物語』のごとき場面展開をそれぞれ想起させる空間が意図されているのだろうかと、そんなふうに語感のちがいを感じた。
それにしても、この富永の講演録を読んでいると、大江宏が1962年に書いた「建築の本質」の文章が想起されて仕方がない。
大江の「建築の本質」には、日本が伝統的に持つ習慣や感性を賛美し、近代の短絡的合理性や質よりも量を重視することの危うさに警鐘を鳴らし、「住む人の生活の「心」に関する要素が軽視、あるいは時として全く度外視されたまま家が作られてゆく点」が問題だと指摘している論考である。
このなかで大江は、「昔も今も日本の家は人の心の移り変りを一番大切なものとして尊重して来た。門から家に至る過程も一直線に真中から飛び込むというようなぶっきら棒な入り方は最も拙劣で忌わしいもの」と書いている。さらに、日本の家の特徴について「人の歩むにつれて視点は刻々に移動し、視界が流動し、変転するのは廻遊式庭園の場合だけに限らず、家の中のデザインでも全く同じことである」とも書いている。
まさにル・コルビュジエの唱えた「建築的プロムナード」を踏まえて、前川が日本の風土・風景を意識して「エスプラナード」の水平展開へと昇華させたことに通じている。しかも、大江の論(1962年)は前川の「エスプラナード」(1966年)よりも早い。
ということは、前川の側が、大江から刺激を受けて、「建築的プロムナード」を「エスプラナード」へと昇華させるに至ったのかもしれない。大江は前川に食事に連れて行ったもらったり、日本建築家協会の会長を引き継がれたりと、近しく交流のある間柄だった。
もちろん、大江の語る「日本の家」の特徴は、大江だけが理解していたというものではないし、前川だって「日本の家」が元来どのようなものであったかなどは百も承知なはずである。しかし、問題は、その当たり前の事実であった伝統的価値観が、新しい価値観である近代の、その瑕疵を補う可能性のあるものであったことに気付いたことである。
前川の場合、近代建築の薄くて耐久性の低い壁が日本の風雨の樣に合わないことから開発した打ち込みタイル(1964年の紀伊国屋書店以降用いられる)、コルビュジエの建築的プロムナードに日本的な「淀み」と回遊式庭園のような水平展開を加味したエスプラナードなどがなされる1960年代半ばがその時だったのである。
大江にしても、法政大学の一連の建築(55/58年館裏側のスロープにはコルビュジエの垂直的な「建築的プロムナード」のあとが見て取れるか)を通じて、インターナショナル・スタイルの建築をまさにそのままに日本で実現しようとの宿願を果たしたのち、やはり、インターナショナル・スタイルと日本の風習とが必ずしも相容れないことを反省して、しかし、丹下のように伝統を近代の実現のための「素材」として消費してしまうことなく、折り合いをつけようと悩んだのだった。
風土に目を向け、伝統を考えつつ、しかし近代を根付かせることを考えたのは、たしかにこの日たりだけではない。みんなやっていた。しかし、こと、「建築的プロムナード」から「エスプラナード」への展開に着目すると、前川と大江には、ひとかたならぬ共感を見出すことができるのである。
熊本県立美術館(前川國男/1976)外観
熊本県立美術館のロビー
熊本県立美術館のロビー
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