大江宏の建築観と父・新太郎の若き日の論考

2019/03/19 種田元晴


 大江宏の父・新太郎は1879年に東京に生まれた。同年生まれの建築家には、田辺淳吉(帝大で一年先輩の清水組技師)、鉄川与助(長崎の教会棟梁)らがいる。ちなみに、サントリー創業者の鳥井信治郎、三菱財閥四代総帥・岩崎小弥太、大正天皇、永井荷風、滝廉太郎、アインシュタインなども同年生まれである。以下、帝大同級生の前田松韻による略歴をひもときつつ、とくにその前半生をみつめたい(参照:建築学会『建築雑誌』1935年9月号「大江新太郎君を弔ふ」)

 新太郎の父は大江蘇一といった。その家系は、前田によれば、「大江氏の初は遠く鳥居橋家に出で、数代前に別に出でて大江氏を継がれた」とのことである。鳥居橋という苗字がどのような家系かは不明だが、京都にいくらか今でもいる苗字であるらしい。ちなみに、宏の手掛けた宇佐神宮のちかくには1916年完成の鳥居橋という橋があるが、これは近代土木遺産なので、関係ない。なお、上賀茂神社祠官家には鳥居大路家という家柄はあるが、はて…。

 新太郎の母は、上賀茂神社祠官家である岡本家の出身であった。その縁から、新太郎は幼少期に京都の教育家として名高かった叔父岡本淸來のもとに預けられて修養を積んだという(余談ながら、上賀茂神社宮司と吉田神社宮司によって創立された京都精華女子高等学校がのちに京都精華大学をつくる際の初代学長は京都の法学者・岡本清一であった。名前の字面や出生地、上賀茂神社との関連などを勘案すると、岡本清一は岡本清来の親戚か)

 岡本に鍛えられた新太郎は、幼くして秀才と讃えられ、とくに絵画には天賦の才を発揮したという。その後、京都の中学(校名不詳)から旧制三高(現・京都大学)へ進むと、そこでは、持ち前の江戸っ子気質の侠気と坦懐な性格から、同級生の世話役としてふるまい、皆から敬意を集めていたという。

 大学は東京へ戻って1901年、東京帝国大学工科大学建築科へ進む。同級生の前田曰く、「君の存せる芸術的才能は漸く光輝を発し、真面目なる中に一片洒落の気を含みて、意匠、学術共に進み、吾等の称賛するところであり」とベタ褒め。
 
 そして1904年(25歳)7月、同大学を卒業する。同期卒業は、前田のほかに、池田実(大阪府技師)、岩田五月満(韓国で建築技師/卒業計画「A CLUB HOUSE」が産業技術史資料データベースにあり)、加護谷祐太郎(奈良県技師等/代表作「明石郡公会堂(現・明石市立中崎公会堂」)、近藤十郎(台湾総督府営繕課/代表作「台湾大学医学院付属医院(旧台北帝国大学付属医院)」)、中村伝治(横河工務所を民輔から引き継ぐ)ら大江をいれて計7名であった。

 新太郎はそのまま大学院へと進学する。そして、1903年にイギリスで発刊されたフレデリック・リッチャーフィールド(Frederick Litchfield)による“Illustrated history of furniture”を抄訳した古代ギリシャ・ローマ時代の家具についての論考「希臘羅馬時代のフハーニチュアー」を建築雑誌1905年7月号に発表している。新太郎は早くから、古代の地中海圏に関心を持ち、家具デザインがどのように進化をしてきたのか、その源流に着目していたのだった。

 その後、日露戦争戦役中の1905年の7月26日より(至年月日不詳)、新太郎は学術調査のために、清国へと出張を命ぜられる(伊東忠太、大熊喜邦、佐野利器らとともに)。奉天、大連、旅順を訪れ、清時代の装飾について研究し、その成果は1907年に「滿洲に於ける建築装飾に就て」と題した彩色画を含む2編の論文として建築雑誌に発表された(建築学会『建築雑誌』1907年3月号および5月号)

 1907年にはもう一遍、「歐洲中古の色彩装飾に就て」との論考も建築雑誌に発表されている(建築学会『建築雑誌』1907年4月号)。2年前のリッチャーフィールドの翻訳から古代の装飾を学んだことを踏まえて、今度は中世について自ら論を立てようと試みたのであろう。その完成度から言って、おそらく、新太郎の修士論文に相当するものではないか(修士の学位は戦後のものであって、当時は学士か博士しかないので、修士論文などない。なお新太郎は博士の学位は取得していない)。中世ヨーロッパにおける色彩装飾について、かなり密な議論が展開されている。

 この論考のなかで興味深いのは、とくに、ロマネスクの建築技師がいかに色彩術に長けていたかを語っている点にある。

 文中では、〈中古の「ゴシック、デコレーター」が、強ちに、古代の「グリーク、デコレーター」の足下にあるものとは言い難い〉といって、古代ギリシャ時代からローマ時代へと続く様式の流れと同等に、一方でビザンチンからの多大な影響を踏まえてロマネスクの装飾が成ってゆくことを示している。

 論文は、ノルマン建築(注:ロマネスク建築の一様式)についての次のことば締めくくられている。新太郎がロマネスク建築を高く評価していることがよくわかる一文と思う。

〈Peterborough Cathedral.(注:英国教会のピーターバラ大聖堂)の「子―プ」の天井は、今尚存する「ノルマン」時代作中の最傑作である。〉

 また、〈「ビオレルドゥー」氏説いて曰く、彩色が建築に適用せらるるには、常に二つの仕方しかない。〉との記述も見られる。「ビオレルドゥー」はおそらく、「ヴォオレ・ル・デュク」のことであろう。参考にしているのは『建築講話』と思われる。同じく、デュクの説く、ルネサンス時代以降に建築家とペインターが分離したとする説を引くなどのくだりも興味深い。新太郎は同論考の中でデュクの説を3度引いている。なかなかの思い入れが垣間見える。


 さらには、〈此等(筆者注:ステンドグラスや壁画など)建築装飾の技術は、素と寺院の僧庵(クロイスター)から発展の歩を始めたもので、最初の「スタイル」は、「グリーク、ビザンチン、アート」から起こり初めたのである〉との記述も見られる。

 宏は晩年、プレロマネスクに興味を持ち、クロイスターに見せられ、ヴォオレ・ル・デュクに傾倒する。そのいずれもが、この論考に示されるように、若き頃の新太郎の関心の範疇にあった。宏の建築観形成に、この論考は多大な影響を与えているのにちがいない。