日泰文化会館をめぐって
2018/12/10 種田元晴
戦前・戦中の前川國男(1905-1986)は大陸の建築を手掛ける傍らで、コンペに明け暮れた。「日泰文化会館」(当初の名称は「在盤谷日本文化会館」)もそのひとつ。
1943年、太平洋戦争下において植民地化を免れていたタイ王国(1939年にシャムからタイへと国名変更)との同盟(および文化協定)を結んでいた日本は、首都バンコクに、大東亜共栄圏の象徴として、日本文化を紹介する施設を設けることとなった。現地産のチーク材を用いた木造でつくることを条件とした設計競技であった。
このコンペの審査員は岸田日出刀を筆頭に、伊東忠太、内田祥三、大熊喜邦、佐藤武夫らの建築家諸氏と、富士山を愛した日本画家の横山大観などであった。
全96案のなかから一等に選ばれたのは、前年の「大東亜建設記念営造計画」コンペで富士山を建築の軸の果てに据えた案により一等入選を果たしていた丹下健三。丹下の「日泰文化会館」案は、京都御所に倣った平安的な切妻屋根群を、左右対称に配置して記念性を増幅させた建築であった。
二等には丹下の実務の師である前川國男が入る。丹下は師をこのコンペで追い抜いていた。なお、選外佳作には大江宏の弟・透の名前も見える(参照:倉方俊輔「日泰文化会館設計競技の経緯について」日本建築学会学術講演梗概集F-1,2002.06,pp.383-384)。
前川の案は、桃山時代の書院造を思わせる、非対称な平面形状を持つ建築であった。前川は、「東京帝室博物館」などの帝冠様式を求められたコンペにも屈せずにインターナショナル・スタイルを貫いていた。しかし、このコンペでの前川案は、いかにも日本の伝統を直截的に表現している。前川がついぞ国粋主義に屈服したかのように思われて、物議を醸した作品であった。
ただし、このコンペでは、木造との課題条件もあってか、丹下の回想によれば、〈ほとんど全員、揃いも揃って屋根がついているんです〉(丹下健三「コンペの時代(わが回想,失われた昭和10年代)」建築雑誌,1985.01,p.23)とのことであった。仏教国タイにおいて、日本仏教の存在を知らせるべく、日本の寺社建築らしい屋根形状のあり方が模索されたのだろう。
前川の案も、決して「帝冠」的に近代に伝統をとってつけたものではない。むしろ、骨の髄にまで染みわたっているモダニズムをいかに己から除くことができるか、との挑戦を試みたとも解せるほどに、非近代的である。
日本に生まれた建築家である以上、どのような世相にあれ、日本的とはいかなることであるかを少なからずは意識せざるを得ない。モダニズムの理想を示し続けては落選を続けていた前川が、それでは、一旦モダニズムを排除してみたらどのように評価されるのか、を身をもって一度体験することで「帝冠」を示した側の想いに近づき、そのうえで、これをどう乗り越えるべきかを模索すべく、あえて挑んだ姿勢だったようにすら思えてくる。
その結果が二等当選である。迷いなく伝統を直截的に表現した丹下に、その素直さで一歩及ばなかったものの、健闘した。しかし前川の態度は決して自暴自棄などではない。むしろ、闘争のために敵を知ることとしての振る舞いだったのではないか。
さて、コンペは本来、一等当選案に基づいて、その当選者が自らの思想を貫いて実施設計まで行うのが筋である。しかし、このコンペでは、丹下案がそのままに実現に向かうこととはならなかった。
宮内康が前川から聞いた話によれば、〈ある時前川氏が東京大学へ行き、このコンペの審査委員長であった岸田日出刀の研究室をたずねると、そこで丹下氏がこの建物の実施設計の図面を引いている。見ると、なんとその平面図は、二等の自分のものではないか。驚いて岸田に問うと、彼は「審査の段階から自分は、平面は前川案、立面は丹下案にしようと考えていた」と平然と述べた〉(同時代建築会編『悲喜劇一九三〇年代の建築と文化』現代企画社,1981,p.53)という。
丹下の師であり前川の先輩であった岸田には、二人の案がともに伝統を直截的に表現した甲乙つけがたいものであったことから、この二人が自らの影響下にいるとのある種の甘えもあいまって、ハイブリットにしてしまえとの、ある種のハラスメントともいっていい強権を発動したのだった。その結果、この設計案の実施設計過程はねじれてゆく。
一等入選を果たした丹下健三は、このときまだ大学院生であった。1938年に大学を出て、前川事務所で3年働き、1941年に大学院に戻っていた。学生に実務を一任するわけにはいかないとの配慮からか、このコンペ案の実施設計は土浦亀城が行うこととなっていたようである。
土浦は、岸田にとっては1922年卒業を同じくした(入学年度は土浦が一年上か)東京帝国大学の同期であった。また、審査員を務めた横山大観の甥でもあった。審査員との密なつながりかがあったのである。これに関しては、当時土浦事務所に勤めていた河野通祐の以下の回想が興味深い。
〈日タイ文化会館は国のコンペで一等が未だ大学院の学生だった丹下健三氏、二等が前川国男氏であった。実施設計は、審査員でもあった東大教授の岸田日出刀先生が委員長となって土浦建築事務所で進めることになり、郡さん(筆者注:郡菊夫)が担当することになった。ところが、実施設計は前川案が採用されるというので私たちスタッフは反発した。学生であった丹下案を採用するのなら、土浦事務所が実施設計を行っても抵抗はなかったが、前川国男氏は建築家であり、設計事務所を持っている方であるから、応募された案には前川氏の思想があるはずである。実施設計はその思想をつらぬく責任があるので前川氏でなくてはならない、と土浦先生に進言した。松村さん(筆者注:松村正恒)、今井さん(筆者注:今井親賢)、森田良夫さんも同じ考えであった。しかし、先生の考えは、コンペで原案に賞金をかけ、支払ってあるので、それはそれで清算されている。実施設計は原案には関係ない、というのだった。私達は何か腑に落ちなかった。そこで私達は事務所の顧問であった小野薫先生に思いを打明け相談した。先生はしばらく考えておられたようだったが、私も君達と同じ考えなので土浦さんにその考えが無いのなら、事務所を辞めろ、あとは私が引受ける。といわれた。しかし結局、辞めたのは松村さんと私だけだった。〉(河野通祐『みみずのつぶやき―無名建築家の生涯』大龍堂書店,1997,pp.69-70)
河野は岸田が「審査員であった」ことに加えて実施設計の「委員長」であったといっている。これは、実施設計が岸田をリーダーとするチームによって行われていたことを意味すると思われる。つまり、コンペ案をもとにしながら、岸田がこれを自らの意向のための参考にしつつ方針を新たに定め、実務はその意向をくみながら土浦が担当するというチームワークであったと考えられる。当選案の設計者の思想はないがしろにされている。
土浦事務所はこのとき、戦時下を乗り切るべく打って出ていた満州の仕事を引き上げていた。戦時下は建築づくりにとっては冬の時代であった。建築設計事務所の経営はいずこもかなりつらい。土浦としても、ことによったら、当選者の思想はそれは貫くことが正論だとは理解しつつも、そんなことをいっていられないほどに逼迫した事務所を取り巻く経済状況をどうにか乗り切らねばならぬとの焦燥に打ち勝てなかっただけなのかもしれない。
あるいは、前川がインターナショナル・スタイルによる抵抗を中断し、主催側の意図に寄り添った意匠をこのコンペで提案し、そして見事に作戦が功を奏して2等入選を果たしたことも、背に腹はいかんとも代えられず、賞金を手に入れるためにとった生存のためのやむを得ぬ選択であったとの側面も多少はあったのではないか。実際、その賞金は7000円であったが(上記倉方論文参照)、独立時当初(1935年)の前川の事務所経費が月700円だったというので(松隈洋「コンペ連続挑戦の意味」『生誕百年前川國男建築展』図録,2005,p.76)、その額は10か月をしのげる大金であった。前川ほどに自らの意思を貫徹させた人物ですらもそうせざるをえなかったほどに、この時期の日本は絶望的な生活状況に置かれていたことが垣間見えてくる。
1943年、太平洋戦争下において植民地化を免れていたタイ王国(1939年にシャムからタイへと国名変更)との同盟(および文化協定)を結んでいた日本は、首都バンコクに、大東亜共栄圏の象徴として、日本文化を紹介する施設を設けることとなった。現地産のチーク材を用いた木造でつくることを条件とした設計競技であった。
このコンペの審査員は岸田日出刀を筆頭に、伊東忠太、内田祥三、大熊喜邦、佐藤武夫らの建築家諸氏と、富士山を愛した日本画家の横山大観などであった。
全96案のなかから一等に選ばれたのは、前年の「大東亜建設記念営造計画」コンペで富士山を建築の軸の果てに据えた案により一等入選を果たしていた丹下健三。丹下の「日泰文化会館」案は、京都御所に倣った平安的な切妻屋根群を、左右対称に配置して記念性を増幅させた建築であった。
二等には丹下の実務の師である前川國男が入る。丹下は師をこのコンペで追い抜いていた。なお、選外佳作には大江宏の弟・透の名前も見える(参照:倉方俊輔「日泰文化会館設計競技の経緯について」日本建築学会学術講演梗概集F-1,2002.06,pp.383-384)。
前川の案は、桃山時代の書院造を思わせる、非対称な平面形状を持つ建築であった。前川は、「東京帝室博物館」などの帝冠様式を求められたコンペにも屈せずにインターナショナル・スタイルを貫いていた。しかし、このコンペでの前川案は、いかにも日本の伝統を直截的に表現している。前川がついぞ国粋主義に屈服したかのように思われて、物議を醸した作品であった。
ただし、このコンペでは、木造との課題条件もあってか、丹下の回想によれば、〈ほとんど全員、揃いも揃って屋根がついているんです〉(丹下健三「コンペの時代(わが回想,失われた昭和10年代)」建築雑誌,1985.01,p.23)とのことであった。仏教国タイにおいて、日本仏教の存在を知らせるべく、日本の寺社建築らしい屋根形状のあり方が模索されたのだろう。
前川の案も、決して「帝冠」的に近代に伝統をとってつけたものではない。むしろ、骨の髄にまで染みわたっているモダニズムをいかに己から除くことができるか、との挑戦を試みたとも解せるほどに、非近代的である。
日本に生まれた建築家である以上、どのような世相にあれ、日本的とはいかなることであるかを少なからずは意識せざるを得ない。モダニズムの理想を示し続けては落選を続けていた前川が、それでは、一旦モダニズムを排除してみたらどのように評価されるのか、を身をもって一度体験することで「帝冠」を示した側の想いに近づき、そのうえで、これをどう乗り越えるべきかを模索すべく、あえて挑んだ姿勢だったようにすら思えてくる。
その結果が二等当選である。迷いなく伝統を直截的に表現した丹下に、その素直さで一歩及ばなかったものの、健闘した。しかし前川の態度は決して自暴自棄などではない。むしろ、闘争のために敵を知ることとしての振る舞いだったのではないか。
さて、コンペは本来、一等当選案に基づいて、その当選者が自らの思想を貫いて実施設計まで行うのが筋である。しかし、このコンペでは、丹下案がそのままに実現に向かうこととはならなかった。
宮内康が前川から聞いた話によれば、〈ある時前川氏が東京大学へ行き、このコンペの審査委員長であった岸田日出刀の研究室をたずねると、そこで丹下氏がこの建物の実施設計の図面を引いている。見ると、なんとその平面図は、二等の自分のものではないか。驚いて岸田に問うと、彼は「審査の段階から自分は、平面は前川案、立面は丹下案にしようと考えていた」と平然と述べた〉(同時代建築会編『悲喜劇一九三〇年代の建築と文化』現代企画社,1981,p.53)という。
丹下の師であり前川の先輩であった岸田には、二人の案がともに伝統を直截的に表現した甲乙つけがたいものであったことから、この二人が自らの影響下にいるとのある種の甘えもあいまって、ハイブリットにしてしまえとの、ある種のハラスメントともいっていい強権を発動したのだった。その結果、この設計案の実施設計過程はねじれてゆく。
一等入選を果たした丹下健三は、このときまだ大学院生であった。1938年に大学を出て、前川事務所で3年働き、1941年に大学院に戻っていた。学生に実務を一任するわけにはいかないとの配慮からか、このコンペ案の実施設計は土浦亀城が行うこととなっていたようである。
土浦は、岸田にとっては1922年卒業を同じくした(入学年度は土浦が一年上か)東京帝国大学の同期であった。また、審査員を務めた横山大観の甥でもあった。審査員との密なつながりかがあったのである。これに関しては、当時土浦事務所に勤めていた河野通祐の以下の回想が興味深い。
〈日タイ文化会館は国のコンペで一等が未だ大学院の学生だった丹下健三氏、二等が前川国男氏であった。実施設計は、審査員でもあった東大教授の岸田日出刀先生が委員長となって土浦建築事務所で進めることになり、郡さん(筆者注:郡菊夫)が担当することになった。ところが、実施設計は前川案が採用されるというので私たちスタッフは反発した。学生であった丹下案を採用するのなら、土浦事務所が実施設計を行っても抵抗はなかったが、前川国男氏は建築家であり、設計事務所を持っている方であるから、応募された案には前川氏の思想があるはずである。実施設計はその思想をつらぬく責任があるので前川氏でなくてはならない、と土浦先生に進言した。松村さん(筆者注:松村正恒)、今井さん(筆者注:今井親賢)、森田良夫さんも同じ考えであった。しかし、先生の考えは、コンペで原案に賞金をかけ、支払ってあるので、それはそれで清算されている。実施設計は原案には関係ない、というのだった。私達は何か腑に落ちなかった。そこで私達は事務所の顧問であった小野薫先生に思いを打明け相談した。先生はしばらく考えておられたようだったが、私も君達と同じ考えなので土浦さんにその考えが無いのなら、事務所を辞めろ、あとは私が引受ける。といわれた。しかし結局、辞めたのは松村さんと私だけだった。〉(河野通祐『みみずのつぶやき―無名建築家の生涯』大龍堂書店,1997,pp.69-70)
河野は岸田が「審査員であった」ことに加えて実施設計の「委員長」であったといっている。これは、実施設計が岸田をリーダーとするチームによって行われていたことを意味すると思われる。つまり、コンペ案をもとにしながら、岸田がこれを自らの意向のための参考にしつつ方針を新たに定め、実務はその意向をくみながら土浦が担当するというチームワークであったと考えられる。当選案の設計者の思想はないがしろにされている。
土浦事務所はこのとき、戦時下を乗り切るべく打って出ていた満州の仕事を引き上げていた。戦時下は建築づくりにとっては冬の時代であった。建築設計事務所の経営はいずこもかなりつらい。土浦としても、ことによったら、当選者の思想はそれは貫くことが正論だとは理解しつつも、そんなことをいっていられないほどに逼迫した事務所を取り巻く経済状況をどうにか乗り切らねばならぬとの焦燥に打ち勝てなかっただけなのかもしれない。
あるいは、前川がインターナショナル・スタイルによる抵抗を中断し、主催側の意図に寄り添った意匠をこのコンペで提案し、そして見事に作戦が功を奏して2等入選を果たしたことも、背に腹はいかんとも代えられず、賞金を手に入れるためにとった生存のためのやむを得ぬ選択であったとの側面も多少はあったのではないか。実際、その賞金は7000円であったが(上記倉方論文参照)、独立時当初(1935年)の前川の事務所経費が月700円だったというので(松隈洋「コンペ連続挑戦の意味」『生誕百年前川國男建築展』図録,2005,p.76)、その額は10か月をしのげる大金であった。前川ほどに自らの意思を貫徹させた人物ですらもそうせざるをえなかったほどに、この時期の日本は絶望的な生活状況に置かれていたことが垣間見えてくる。