コルビュジエがペレ,ベーレンスから学んだこと ―ピーター・ブレイク『現代建築の巨匠』(1967)読考
2018/04/10 種田元晴
ピーター・ブレイク『現代建築の巨匠』には3人の建築家、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライトを取り上げて論じられている。いはく、この3人は、近代建築の時代(1850年以降)のどの建築家たちよりも、芸術家として優れていたために、この3人が選ばれたのであった。建築家は、もちろん技術者であらねばならない。しかし、技術者として優れているだけでは、建築家たりえない。ブレイクの以下のことばに、彼らの芸術家としての資質が示されている。
〈これらの3人は、自分たちの生きていた世界について、詩的な洞察力をもっていた。彼らはそれを形にあらわす場合、その時どきの散文的な能力の限界に禍いされた同僚の合理主義者をはるかにしのぐ大胆さを持ちあわせていたのである。〉
ブレイクは、偉大な建築の生命を、
1)機能の良否が問われる竣工時、
2)芸術性が発言する1,2世代後、
3)古さが価値となる相当の年月後
の3段階に分ける。そして、同時代を生きた彼らの建築は、まだ第1の生命がはじまったばかりであると語る。2018年の現在、彼らの建築はすでに第2の生命に達していると言えるだろう。第3の生命を灯す日もそう遠くはない。では、その後はどうか。
建築は、そこに建つだけでなく、図の中に言葉の中にも建ち現われ、そうして、その建築が失われたのちにも建ち続けるのである。つまり、偉大な建築には、第4の生命、すなわち、建築の実物がなくなって、芸術として、永遠の命を手に入れる段階があるはずだ。重たい実物が、軽い言葉や絵となって、未来永劫語り継がれるのだ。
建築家の佐々木宏は、芸術の価値はその作品の重さによって決まる、と述べていた。つまり、軽ければ軽いほど価値が高く、重ければ重いほど価値が低い、という。最も重いのは建築で、軽いのは詩である。建築家が芸術家であるとき、彼は詩人でなければならない。
技術者、啓蒙者として彼ら以上に近代建築に貢献した人物は、無数に存在する。しかし、歴史により深く名を刻んだのは、彼らであった。
そんな彼らも、ひとり建築を追究しつづけて彼らになったわけではない。同時代に生きた建築家、建築そのものから多くを学び、それを持ち前の“詩力”によって己のものとしたのであった。
たとえば、ル・コルビュジエ。地元ラ・ショー・ド・フォンでレプラトニエに見いだされて建築家としての道を進みはじめたコルビュジエは、その後旅に出て偉大な建築家たちに出会い、彼らから多くを摂取した。
1908年、コルはオーギュスト・ペレをたずねて15か月勤めた。ここで彼の鉄筋コンクリート打ち放し工法を知り、建築の革命を予感した。そして、ペレの事務所があった、ペレによる鉄筋コンクリート打ち放しによる高層ビルから、その平面の自由さ、立面の開放性、1階のピロティ空間、そして屋上庭園などをここで体験する。まじめすぎるペレに代わって、コルはこれこそが新しい時代にふさわしい建築の主要素であると啓蒙する、近代建築の5原則として提唱するのだった。後に実現する「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」(1952)の原型がペレの事務所ビルには見いだせる。
コルは、アール・ヌーボーから抜け出した建築家として、ペーター・ベーレンスにも関心を持つ。1910年、5か月間ベーレンスのもとで働いた。ベーレンスのもとでコルは、まさにその時に手掛けられてい「AEGタービン工場」の建築そのもの、そしてそれに付随する照明設備、事務用品、看板標識などの工業デザインを目の当たりにし、アール・ヌーボーの自然から抽出した形の不規律性よりも、機械による人工物の規律正しさ、実用性、形態の純粋幾何学性にこそ美しさがあると思い至るのだった。
彼らから建築を学んだ若き日のコルは、そこでの直接、間接の教えを、教えた本人以上に咀嚼し、まさに「自分たちの生きていた世界について、詩的な洞察力をもって」自らの作品に第4の生命を吹き込んだのだった。
〈これらの3人は、自分たちの生きていた世界について、詩的な洞察力をもっていた。彼らはそれを形にあらわす場合、その時どきの散文的な能力の限界に禍いされた同僚の合理主義者をはるかにしのぐ大胆さを持ちあわせていたのである。〉
ブレイクは、偉大な建築の生命を、
1)機能の良否が問われる竣工時、
2)芸術性が発言する1,2世代後、
3)古さが価値となる相当の年月後
の3段階に分ける。そして、同時代を生きた彼らの建築は、まだ第1の生命がはじまったばかりであると語る。2018年の現在、彼らの建築はすでに第2の生命に達していると言えるだろう。第3の生命を灯す日もそう遠くはない。では、その後はどうか。
建築は、そこに建つだけでなく、図の中に言葉の中にも建ち現われ、そうして、その建築が失われたのちにも建ち続けるのである。つまり、偉大な建築には、第4の生命、すなわち、建築の実物がなくなって、芸術として、永遠の命を手に入れる段階があるはずだ。重たい実物が、軽い言葉や絵となって、未来永劫語り継がれるのだ。
建築家の佐々木宏は、芸術の価値はその作品の重さによって決まる、と述べていた。つまり、軽ければ軽いほど価値が高く、重ければ重いほど価値が低い、という。最も重いのは建築で、軽いのは詩である。建築家が芸術家であるとき、彼は詩人でなければならない。
技術者、啓蒙者として彼ら以上に近代建築に貢献した人物は、無数に存在する。しかし、歴史により深く名を刻んだのは、彼らであった。
そんな彼らも、ひとり建築を追究しつづけて彼らになったわけではない。同時代に生きた建築家、建築そのものから多くを学び、それを持ち前の“詩力”によって己のものとしたのであった。
たとえば、ル・コルビュジエ。地元ラ・ショー・ド・フォンでレプラトニエに見いだされて建築家としての道を進みはじめたコルビュジエは、その後旅に出て偉大な建築家たちに出会い、彼らから多くを摂取した。
1908年、コルはオーギュスト・ペレをたずねて15か月勤めた。ここで彼の鉄筋コンクリート打ち放し工法を知り、建築の革命を予感した。そして、ペレの事務所があった、ペレによる鉄筋コンクリート打ち放しによる高層ビルから、その平面の自由さ、立面の開放性、1階のピロティ空間、そして屋上庭園などをここで体験する。まじめすぎるペレに代わって、コルはこれこそが新しい時代にふさわしい建築の主要素であると啓蒙する、近代建築の5原則として提唱するのだった。後に実現する「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」(1952)の原型がペレの事務所ビルには見いだせる。
コルは、アール・ヌーボーから抜け出した建築家として、ペーター・ベーレンスにも関心を持つ。1910年、5か月間ベーレンスのもとで働いた。ベーレンスのもとでコルは、まさにその時に手掛けられてい「AEGタービン工場」の建築そのもの、そしてそれに付随する照明設備、事務用品、看板標識などの工業デザインを目の当たりにし、アール・ヌーボーの自然から抽出した形の不規律性よりも、機械による人工物の規律正しさ、実用性、形態の純粋幾何学性にこそ美しさがあると思い至るのだった。
彼らから建築を学んだ若き日のコルは、そこでの直接、間接の教えを、教えた本人以上に咀嚼し、まさに「自分たちの生きていた世界について、詩的な洞察力をもって」自らの作品に第4の生命を吹き込んだのだった。