きき石を打ち込む

「propotionについて」(『ディテール75』1983年1月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/08/09  種田元晴


 大江にとって「プロポーション」は、建築をつくるうえできわめて重要な要素であった。この記事では、まず、「プロポーション」がいかに広義な言葉であるかを述べている。曰く、木割/黄金比/対称性/規模を指し示す語として用いられるなど、さまざまに解釈される用語である、と。いずれにしても、そもそも、建築を対象とした言葉であるとの前提で用語の定義が確認されている。

 そのうえで、大江はやや唐突に囲碁の例を持ち出す。囲碁の大局を決める「地割」「布石」は、まさに「プロポーション」と呼ぶにふさわしい、と、述べている。つまり、「プロポーション」はもの・ことの大局を決める重要な要素であるとの意が、ここでは述べられている。

 続いて、能におけるシテ・ワキ・ツレの呼称が作庭・植樹にも用いられることを説き、この配置関係(不等辺三角形)と、この均衡を破るトビの存在によって、活力あるプロポーションが形成されると示している。

 このうち、ここではとくに囲碁の話に着目したい。

 ところで、記事には、この5年前に竣工した伊勢神宮神楽殿の配置図が付されている。つまり、ここで述べられている「プロポーション」は伊勢神宮を想起させつつ説いたものだと考えられる。しかし、言外の意を多く含んで語る大江宏が暗示させるものは、この建築ばかりではない。

 この年(1983年)には、後に大江の代表作と目されることとなる、複数の宝形屋根を雁行配置させた「国立能楽堂」が竣工する。大規模な敷地に、必要な機能を美しくそして「大江宏らしく」配置することが期待された「国立能楽堂」は、まさに、プロポーションが強く意識された建築だった。文中に能の例を取り上げたことからも、この建築を読者に想起させようとの意図が見え隠れしている。

 もうひとつ、この年に大江は、乃木希典将軍を祀った「乃木神社」の儀式殿、参集殿、宝物殿、社務所を竣工させている。

 「乃木神社」は、大江宏にとって縁の深い神社であった。もともとの境内は、鎮座祭の行われた1923年に父・大江新太郎が手掛けたものだった。しかし、その後、空襲によりそのほとんどは失われ、手水舎のみが残った。御祭神50年祭(乃木将軍の没後50年目)にあたる1962年には、父が手掛けたその跡地に、父の想いを受け継ぎつつ本殿・幣殿・拝殿を完成させていた。1983年は御鎮座60年祭(境内創建から60年目)にあたり、これに合わせて上記の4つが新たに加えられたのだった。

 大江宏がこの記事を書いている頃は、「乃木神社」がまさに出来上がろうとしているその時だった。大江宏は、父・新太郎による手水舎、そして、自らが手掛けた本殿のある「乃木神社」に、最適なプロポーションで新たな建築を加えたいと考えていた。

 つまり、大江宏は、父から受け継いだ碁盤のうえに、最適な布石を敷いたまま、長い熟慮の期間を経て、「勝因に連なる」「きき石」をどのように打つべきかを考えていたのだった。

 この記事を書くにあたって、大江宏が最も強く想起した建築は「乃木神社」だったにちがいない。

 乃木神社

乃木神社本殿

乃木神社手水舎(設計:大江新太郎)