伝統への目覚め

「社殿の設計とその背景―乃木神社」(『新建築』1984年3月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/09/26 種田元晴


 1960年代、もはや戦後ではなくなった日本は、急速な技術革新により高度な経済成長を遂げていた。建築は、社会情勢に常に追従する宿命にある。当時の建築界では、経済性・合理性の追求された近代主義的建築が勢いよくつくられていた。事務仕事の増大に対応して増殖した、柱と梁によって床を積み上げる基準階型のオフィスビルや、1953年の「町村合併促進法」を皮切りに需要が高まった庁舎建築などは、その好例であるといえよう。

 しかし、大江宏はこの急速な価値観の変貌と、それに追従してつくられる無味乾燥な建築の数々に「不気味な不安感」を禁じ得ない。かくいう大江も、1953年の法政大学大学院など、そのキャリアを、近代主義的な建築を手掛けることからはじめていた。大江にとって、純粋なモダニズム建築は学生時代からの憧れの的であったのだった。これに憧れた想いは、先の法政大学大学院を手掛けることによって満たされ、そして、違和感を大江に萌芽させることとなる。

 1954年、チャンスを得て海外を巡った大江は、北南米、欧州の見聞を経て、あこがれ続けたモダニズムに対する疑念を一層深めることとなった。大江が疑念を抱く一方で、当時の日本の建築界では、近代の合理主義を益々礼賛し、さらにはこれを一層自分たちに近づけるべく、日本の伝統との調和を図ろうと盛り上がっていた。大江は、どうしてもこの風潮にはなじめなかった。

 そんな矢先に舞い込んできた二つの仕事、梅若能楽学院乃木神社とが、大江にとってはこの近代主義への疑念を確かなものにする。すなわち、日本の伝統を体現することが求められた建築を手掛ける好機を得て、大江は近代建築に対して抱く自身の疑念と正面から向き合うこととなってゆくのだった。

 1955年以降、日本の建築界では、モダニズムの文脈から日本の伝統を捉えなおそうとした「伝統論争」が盛り上がった。「伝統論争」は、伝統的な形態をそのまま使うことを否定し、一方で、「美しきもののみ機能的である」として単なる合理主義的建築をも否定することから始められていた。このような盛り上がりをみせた時期にあって、大江は、この風潮に全く同調せずに伝統建築を近代的につくりあげる。大江は、日本の伝統を、図式的に、合理主義的に咀嚼・抽象化することなく、伝統的な形態をしっかりと具体的に用いながら、モダニズムの利点(構造・設備・計画の自由度)を共存させて建築をつくった。

 そして、近代合理主義へと抱く疑念に突き動かされた大江は、やがて自らの内に秘めた伝統への想い、文明史観を確かめるかの如く、地中海・中近東へと出かけるのであった。(つづく)