「天神社と地祇社」(『新建築』1976年6月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考
2016/03/31 種田元晴
木島安史が『新建築』1976年に発表した「上無田松尾神社」を訪ねた大江が、これに寄せて書いた文章である。
紀元前三世紀頃の日本では、朝鮮半島から渡来した農耕文化と、それに伴って伝わったアニミズムの信仰を源流として、独自の農産集落生活形態と、独自の祭祀形式がつくりあげられていた。大江によれば、この原始の祭祀形式では、農耕集落地域のすべてが神の領であり、山や木、岩、水などの自然物そのものに神が宿ると考えられており、これを拝むための神社には拝殿のみが設えられ、本殿はそもそもなかったという。
一方で、天照大神を始祖とする諸神を祀る神社形態がその後に生まれ、こちらには、神体が本殿に鎮座し、その本殿がきわめて重要な存在であると考えられていると述べる。こちらは、山や木などの自然物ではなく、宝器を神聖視し、神の存在も人格化されたものであった。これは、弥生時代から古墳時代となって、集落を束ねる首長の絶対性が高まった頃に起こり始めた神社形態であると大江は見ている。その代表は、奈良の大神神社や京都の上賀茂神社であるという。その他、諏訪大社もこれにあたる。なお、上賀茂神社には天武天皇の御代(678)に本殿が造営され、これ以降本殿に神体が鎮座して現在に至っている。
大江は、前者の本殿のない自然神を祀る神社は「地祇社(くにつかみ)」、後者の本殿を重視した人格神を祀る神社は「天神社(あまつかみ)」としてそれぞれ格付けられると述べる。これは、平安時代初期(815年)に編纂された、京および畿内に住む氏族らの祖先を記録した『新撰姓氏録』のなかの、神武天皇以前に生まれた氏族の出自の分類に基づくものである。
さて、これらの神社の2つの分類をさらったところで、北九州地域の集落遺跡に話題が転換される。大江は、福岡県にあるふたつの弥生時代後期の集落遺跡「三雲南小路遺跡(糸島市)」、「須玖岡本遺跡(春日市)」に着目している。これらの集落は、紀元前一世紀頃に人口密度が急激に増大し、それに伴って、「半階級的集落」(小国家)となったという。これらの集落遺跡の出土品からは、南鮮、壱岐、対馬など海の向うと交流できた航海術を持ち、『後漢書東夷伝』に記されたように中国との通交・朝貢関係を築いていたことがうかがえると考察する。
つまり、日本には、紀元前三世紀頃に山陰に「漂着的渡来をした農耕集団」と、紀元前一世紀頃に北九州に「急激に来航した政治色の濃い集団」とのふたつの異なる性格の集団がやってきて、このふたつの集団が、以後の日本のあらゆる時代、分野の二重構造性の基盤となっていると飛躍的に述べている。
すなわち、「漂着的渡来をした農耕集団」的な神社が「地祇社」であり、「急激に来航した政治色の濃い集団」的な神社が「天神社」に対応しているというのだ。
大江の問題意識は、常に、かつて渡来した伝統と、急激に来航した近代との折り合いのつけ方に向けられている。近代日本にこの二重構造をあてはめると、「地祇社」は、自然エネルギーと自然素材を活かした日本古来の土着的建築、「天神社」は、設備機械と均質素材によって制御された欧米由来のモダニズム建築の対比と見て取ることもできようか。この二項対立をどうにか解決しようと、大江は二項を対立させることなく混在併存させた建築を目指すのであった。
さて、この二重構造を意識した大江は、木島安史による熊本上無田の「松尾神社」を、農耕集落と結びついた「地祇社」であると見定める。さらに、同じく「地祇社」である稲荷社、加茂社と同様に、秦氏が神官を務めた点にも着目する。秦氏(新羅系)は、漢氏(百済系)と並ぶ朝鮮からの二大渡来氏族である。大江は、漢氏が蘇我氏と組んで政治的、軍事的に活躍して官人的性格を強める一方で、秦氏は農地開発や治水などの地方の農業生産推進に貢献するなど在野的性格の濃い氏族であったと述べる。
木島の「松尾神社」では、本殿は既存の修復にとどめられており、近代の技術・意匠による拝殿の方が「新建築」である。耐久性を考慮して鉄筋コンクリート造が選択された拝殿を、本殿に整合する日本風な建築とすることに無理を感じた木島は、思い切ってこれを列柱にヴォールト屋根を載せた古代ローマ的意匠とした。日本の土着の様式に、西洋の様式を“渡来”させたのである。これを一見した大江宏は、日本と西洋との「混在併存」が行われたものなのかと期待したに違いない。
一見矛盾する様式を併存させながら、その両者の起源にまで遡って想いを馳せることで互いの共通点を探り当てようとする姿勢が見出せれば、まさに大江が“二重構造”を解決すべく目論んだ「混在併存」の体現と言える。しかし、大江はこの拝殿の意匠には一切触れていない。この拝殿と修復された本殿は「混在併存」の境地には達していなかったのかもしれない。それは、拝殿の意匠の問題ではなく、鉄筋コンクリートむき出しの本来の姿を失った本殿の修復のされ方に疑念を感じていたからなのかもしれない。
ところで、この文章が発表された1976年6月は、大江宏による「伊勢神宮内宮神楽殿」の設計が開始されたちょうどその年である(『別冊新建築1984 日本現代建築家シリーズ⑧ 大江宏』p.200を参照)。
皇室の氏神である天照大神を祀った伊勢神宮は、まさに、政治色の濃い「天神社」そのものである。「松尾神社」の記事を書いた大江の脳裏には、これが「天神社」の代表格である伊勢神宮との好対照をなしている地方の「地祇社」である、との想いがあったはずだ。
この伊勢神宮の神楽殿では、大江は、鉄骨造によって耐久性を担保しつつ、これをことごとく木造作のなかに組み込むことによって、一切外面にあらわれることのない修復・再生を施した。大江は、既存の有り様を壊すことなく、そこに近代の優れた技術・材料を「混在併存」させることで、“二重構造”による弊害を回避した。
「伊勢神宮神楽殿」に取り組む直前に大江がみた木島の「松尾神社」は、ある意味では、大江にとっての反面教師的な事例として、大江の設計に活かされたものだったといえる。
上無田松尾神社(木島安史/1975)拝殿正面
上無田松尾神社(木島安史/1975)拝殿・神楽殿・本殿(右より)
上無田松尾神社(木島安史/1975)拝殿
上無田松尾神社(木島安史/ 1975)拝殿より本殿を望む