ビデオ「ル・コルビュジエ全集」1・3巻を見て
2018/02/27 種田元晴


 底冷えする建国記念日の晩、恵比寿の伊東建築塾にてビデオ「ル・コルビュジエ全集 建築・都市・芸術」の上映会が開催された。「第10回恵比寿映像祭」の地域連携プログラムの一環として催された無料の上映会であった。

 上映されたのは全3巻のうち第1巻と第3巻。ビデオは、1987年にル・コルビュジエの生誕100年を記念して制作されたものであった。監督は、シャルロット・ペリアンの研究家で、ペリアンの娘婿でもあったジャック・バルサック。日本語版は、編集者の鈴木明氏率いる建築・都市ワークショップ(1986年設立)によって制作された。日本語版パッケージには「今後、コルビュジエを語ることは、もはやこの映画の参照抜きにはなし得ない。」と八束はじめ氏の言葉が添えられている。

 第1巻では、1887年の生い立ちから1929年のサヴォア邸までを語る。全57分。全編ル・コルビュジエ へのインタビュー音声を主軸に関連映像が流れる構成。インタビューといっても、ほとんどコルビュジエ が話しているところだけを編集したもの。

 テンポよく映像と音楽と肉声が入れ替わる。ときおり、聞き手の声が混ざったりする。聞き手の早とちりな質問に、ル・コルビュジエがイラつく場面もしっかり収録。ル・コルビュジエの声はやや早口であるが落ち着いた口調で、高くも低くもなく少しガラッとした渋めの声だった。

 たまたまコルのことをちゃんと勉強しようと思って年表をつくった直後だったこともあって、理解度深く話を追うことができた。案の定、前半部分ではレプラトゥニエから受けた影響の多大さが語られる。実家は、音楽の才に恵まれた兄を中心に回っていたという。

 序盤で印象深かったのは、1907年、二十歳のときに渡ったイタリア旅行の話。処女作「ファレ邸」の設計報酬として得た1500フランを元手に行ったのだとか。現地では9フランでコダックの簡単なカメラを買ったけれど、結局スケッチしないとものごとを深く理解できないと気づき、写真は全然撮らなかったという。

 しばらくよく知られた話が続き、やがて「ベスニュス邸」の立面が映し出された。そのデッキを映像で見て、ああ、先日見学させてもらった六角鬼丈邸母屋(クレバスの家と同じ敷地に建つ新居)の飛び出した謎のデッキはこれのオマージュだったのか、と気づいた。

 それから、宮脇檀は、エスプリ・ヌーヴォー館の穴から木が飛び出て風に揺れている構成を、ブルーボックスハウスでやってみたかったのだなあと思った。

 また、前川國男邸(1942)の回転軸をもつ大扉も、コルの自邸兼事務所(ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅)内の公私の領域を分ける大扉の応用だったのだと思い至った(後にコルはこれをロンシャンの礼拝堂やル・コルビュジエ・センターでもやった)。前川がコルの事務所にいたのは1928~30年。ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅が計画されたのは1931~34年。前川がいた時期のものではない。しかし、この新しいコルの事務所の姿を前川がその後に知っていたとしても不思議ではない。

 1922年、コルビュジエはサロン・ドートンヌに「300万人のための現代都市」計画案と「シトロアン住宅」の計画案を出品する。その「300万人のための現代都市」がフルCG動画で再現されていた。とても秀逸だった。生誕100年の記念映像なので、1987年に制作されたものであるから、ちょうど建築分野でCAD・CGが普及をはじめた頃だった。最先端技術を使ってのプレゼンテーションに力が入っていたとの印象だ。

 同じく、これを具体化した1925年の「ヴォアザン計画」もCG化されていた。こちらは、パリの現代の街並みとのモンタージュ映像まで見せてくれる。非常に迫力があった。迫力があるだけに、パリに巨大建築が建ち並ぶとこんなにも暴力的になるのだということがよく実感される。実現しなくて本当によかったよねと、そう思わせたいかのような見せ方であった。

 理想の都市計画をコルビュジエが白板を使って描きながら説明するくだりがあった。みるみるうちに都市がコルのタッチで描かれてゆく。面積の12%を建築に、88%を自然にという数値が書かれていた。大変印象深いシーンのひとつである。

 ぺサックの「フルジェス近代地区計画集合住宅」計画(1925)の逸話も強烈であった。竣工後、あまりに淡白な空間だという理由から水道会社と揉めて水道を引いてもらえず、フランス当局から放置されてしまった。しかし、その後グロピウスがこれを真似て集合住宅を作ったら、フランス当局はそちらへ取材に行く有様。結局ペサックは誰にも知られることなく頓挫したとコルビュジエが淡々と語る。恨めしいことかと思いきや、しかし、コルはまったくヘコタレていない。

 エスプリ・ヌーヴォー館にまつわる不遇な話も印象深い。パリ博への出展を開催間近になって打診されたという。しかも、小さな敷地が余っているからそこでもいいならやってもいいぞといった扱いであった。この不遇にコルは燃え上る。その日から所員を現場に寝泊まりさせて、徹夜を続けてなんとか仕上げたのだという。でき上がったものは過激と捉えられたようだ。この過激さゆえに常に批判と攻撃にさらされ続けたとコルは語る。

 最後に登場した「サヴォア邸」(1928~31)についてコルは、自由な平面について繰り返し強調して語っていた。

 第3巻は第二次大戦後から。晩年のコルビュジエが登場。全66分。第1巻では音声だけの登場であったコルビュジエが、ついにインタビューを受けている動く姿でお目見え。ドイツにいかに都市が破壊されたか、その悲惨さをまずは示しつつ、サン・ディエの都市計画の話からマルセイユのユニテダビタシオンへと展開してゆく(実は第2巻と第3巻の仏語版はYouTubeで見れてしまう|http://bit.ly/2Cn6XGS)

 ユニテのくだりでは、コルビュジエがインタビュワーをともなって住戸内を丁寧に案内する。3.66mの幅と2.66mの高さの話がここで出てくる。ついでにモデュロールにも触れられる。183cmの人が手を上げた高さ。全面開口としたリビングの日射対策に関して、ブリーズ・ソレイユのことも語られる。ピロティのシーンでは歩車分離の話も。

 全編を通して、コルビュジエはとにかく何度も絶対的な歩車分離を強調する。人間に歩み寄った建築を常に考えていた。その一方で、大衆の批判など一度も気にしたことがないとも語る。つくってるときには「ひどいあばら家だ」といわれ、出来たら今度は「アメリカの富豪の家のようだ」と言われる始末だったという。

 ブリーズ・ソレイユを布石に、話題はチャンディガールへ。コルは自分は人々から高層ビルをつくる人だと思われがちだか、必ずしもそんなことはないという。屋根に寝っ転がる人々の文化を鑑みて、チャンディガールでは低層に仕上げることを意識したという。

 後半は教会三部作をじっくり見せてくれる。とくに詳しく見せてくれるのはロンシャンとラトゥーレット。いずれも依頼を受けてやったものだとまず述べる。その後、3つ目が依頼されるも、もう老齢になっていたし、十分にやったという思いもあって、はじめは断りたかったのだという。しかし、ロンシャンで造形性を追究し、ラトゥーレットで直角性を追究したのだなあと自省するうちに、今度は上へと延びる垂直性を追究した教会を手掛けたくなって、3つ目の教会建築の依頼を引き受けたのだという。それが死後に完成するフィルミニの教会であった。

 周りからどれだけ批判されようとも、「自分の信じる行いが神の喜ぶ行いであるはず」と自信と確信に満ち溢れた生き様を、コルはとにかく見せつける。映像の末尾でコルは「喋ってる暇があったらなんかつくって見せてみろ」と締めくくる。もっと頑張れと鼓舞された、そんなインタビュー映像だった。