工業化部材の気配 ―千代田火災の建物について


2017/12/26 種田元晴


 千代田火災保険は、慶応義塾での福澤諭吉門下生であり貴族院議員であった門野幾之進によって1913年に創業された。その後、大倉火災海上保険、富国火災海上保険などと合併し、1946年に千代田火災海上保険となって2001年まで存続。2001年には大東京火災海上と合併してあいおい損保となり、さらに2010年にあいおいニッセイ同和損保となって現在に至っている。

 大江が手掛けたのは、聖蹟桜ヶ丘駅のすぐ目の前にある事務センターと、岐阜駅から北に徒歩15分ほどのところにある岐阜支店、そして、小田原にある研修センターの3つである。事務センターの設計が1976年から開始され、こちらが終わった1978年から岐阜支店の設計が開始された。先に工事の始まった事務センターの方が延床面積が10倍ほど大きく、両者はほぼ同時期に竣工することとなった。小田原研修センターは1983年に竣工している。

 小田原の研修センターは、山縣有朋の別邸「古稀庵」跡地に建っている。山縣有朋といえば、東京の旧宅跡地に1956年に建てられた「農林省大臣公邸三番町分庁舎(現・農林水産省三番町共用会議所別館)」も大江宏が手掛けたものである。不思議な縁があるものだ。

 さて、ここでは1980年に竣工した2つに注目してみたい。

 事務センターは計算機室を中心とする執務空間ではあるが、エントランス周りには来客を意識した豊かなロビー空間が広がっている。なによりも、角を丸められた山形アーチと細身のリブをもつ十字形の壁柱の連なるファサードが、単なるデータセンターとは思わせない堂々たる佇まいを建築に与えている。

 また、さきほどのロビー空間の吹き抜けを見上げると、上部にせり出した片持ち廊下との境界にプレキャストコンクリートによる細身の丸柱と扁平アーチが連続している。茨城県公館で用いられたロビー空間を壮麗なものとする手法が踏襲されているかのようである。

 設計監理には梅沢安恵が加わっている。梅沢は、中銀マンシオンをはじめとする分譲マンションやゴルフ場クラブハウスなどを手掛けた、実業家タイプの建築家であった。梅沢と大江との間にはどのような役割分担が行なわれていたのだろうか。

 なお、1983年に竣工した千代田火災那須山荘の設計監理は梅沢が単独で行っている。あまり耳にしたことのない建築家ではあるものの、1960~80年代の建築を考えるうえでは無視できない存在でありそうだ。

 誠に残念ながら、事務センターはすでに解体工事が進行中である。今や仮囲いに覆われてその姿を拝むことはできない。同社の研修所と寄宿舎が入る17階建て高層ビルへと建替えられるらしい。大成建設の設計施工で2018年6月着工、2021年10月竣工とのことである。一足遅かったことが悔やまれる。

 岐阜支店の方は、4車線の大通り「徹明通」に面した7階建てのオフィスビルである。通りに並び建つ周囲の建築に比べてやや高い。敷地形状が通りに対して斜めに折れ曲がっており、面積も決して大きくはないため、有効にこの敷地を活用しようとすると、ともすればいびつな建築となりそうなものである。

 実際、建築の平面形状は敷地に添った不整形な形状となっている。しかし、ここでも大江は、プレキャストコンクリートによる細い列柱群とそれらをつなぐ扁平アーチ、そして細かな造作の施された手摺に彩られたバルコニーを通りに面して配することで、壮麗な正面性を獲得している。

 ところで、この2作が掲載された建築文化1981年1月号には、石上神宮も同時掲載されていた。これらはいずれも、大江によるプレキャストコンクリート丸柱の用いられた建築だった。

 ちなみに、同号には白井晟一による渋谷区立松涛美術館も載っている。こちらは、花崗岩の割肌野積みによる量塊的で窓の少ない造形性豊かな建築であった。か細い線材の連続によりながら造形性を確保しようとした大江の作品とは対照的である。白井はいかにも彫刻的に、なるべく無垢な材料を用いながら建築を造形している。

 また、同号には松田平田設計による横浜東京ガス横浜ビルディングも掲載されていた。こちらは、レンガタイルと軽量PC板によって窓と外壁が連なるスパンドレル方式のいかにも工業化建築然とした建築である。

 一方の大江は、工業化されたPC部材を用いつつ、これに細かな工夫を凝らすことによって、本石であるかのように見せていた。建材メーカーの発展が著しい1980年代初頭、同時代の建築家たちは、その部位部材のつくり方にもアトリエ派と組織の違いがはっきりと出てきていた頃だったのではないか。そんな中にあって、大江は、その両者とも異なり、両者を調停するような建材の用い方をも探していたのかもしれない。