建築の憂鬱 或は 病める装美
2016/03/23 種田元晴


 もはや戦前ではないか、とまで申し上げるつもりはない。しかし、現在の我々が置かれている状況を鑑みたとき、ちょうど80年前のそれに似たいくつかを思うことで、同じ道を辿るまいとの心構えが助けられることも少なくない。
 一方で、我々を取り巻く環境は80年のときを経て大きく進化を遂げ、それによって我々の渇望は大きく退化した。

 現代日本の都市は、もはや飽和的に整えられている。それでも都心では、空家の増加が都市伝説だとでも言わんばかりにタワーマンションが勢いよく生えつづけ、来る祝祭が沸かす銭に垂涎し、その受け皿として宿泊・商業施設が集中投下されている。翻って、観光立国を謳いながらも、観光資源と見なすべき旧き良き戦後建築が陳腐の名のもとに取り壊される事例も後を絶たない。

 建築の世界では、依然として、20世紀的に破壊と増殖を続けざるを得ない状況が続いている。ほんとうにこのままでよいのか、などと考えていては仕事にならないと割切ることが、良識ある態度となりつつありはしないだろうか。

 バブル崩壊後に発芽した我々には、すでに動機がない。生まれながらに十分に満たされていた。行き過ぎた浪漫への報いを受けた先人は、焦土に立ちて、できるだけ早く、そしてこれまで以上の生活を手に入れたいとの総意からこれを素晴らしく立て直し、そして現代の我々に不足のない都会暮らしを与えている。

 すべては渇望が原動力だった。しかし、欠乏を味わいづらい環境に生まれた我々は、欲しくて仕方がないとの気を持ち得ない。それにもかかわらず、我々は、先人の渇望の必然性を顧みることなく、その惰性走行のままに、大して欲しくもないのに右上を見続けてしまっている。

 とはいえ、モノと情報が集まるところに集合したいと思うのは、社会に参加する者の当然の欲求である。人の集合欲は、建築の世界に希望を与えている重要な要素のひとつであるにちがいない。集合欲が建築を建てさせ、さらなる集合欲を誘っている。

 しかし、都会が集合欲を誘う勢いは、集合した人やモノを制御する力を上回り続けてしまった。それによる問題の多くはすでに顕わにされているものの、それを解決しようとの態度を免罪符として、いまだ中毒的に破壊と増殖が続けられている。すべては、希望を持ち続けるために。

 さて、こんな具合に絶望していても素敵な未来はやってこない。ここで少し発想を転換しよう。

 そもそも、人には本来、モノと情報に囲まれて人工の便利さ、安全、安心を享受したいとの想いだけでなく、逆にこれらから解放されて、自然への畏怖を感じ、緑を浴びて精神的な安定を保ちたいとの想いが両立しているはずだ。

 前者への欲求は、すでに十分満たされた。後者への欲求は、国木田独歩が『武蔵野』を書き、佐藤春夫が『田園の憂鬱』を書いたように、戦前の頃よりすでに都会人に抱かれていた。しかし、戦後をほぼ乗り越えた今もまだ十分には満たされていない。

 都会のなかに「田園」(ありのままの自然、あるいは、もともとそこにあった風景)を見つけたいとの想いこそ、我々の真の“渇望”なのではないか。

 超高層建築の先駆者である池田武邦(1924-)は、「超高層の目的は、都市の過密に対して人間が立つ大地にいかに緑や太陽を獲得するかである」1)と述べている。都市の代名詞ともいえる超高層建築は本来、情報の中心地での大量の人とモノを捌きつつ、都市のなかの「田園」をも保ちたいとの背反の想いを両立する手段だったのである。しかし、その想いがいつしか忘れ去られ、超高層ビルはすでに単なる“ガラスの巨塔”としてそびえているように思えてならない。

 一方で、既存のストックを再生することで得られる新たな豊かさの可能性を追求し、そして優れた空間を現出させている建築家諸氏が増えているように思われる。彼らには、「もともとそこにあった風景」(「田園」)を大切にしたいとの“渇望”が原動力となっているはずだ。

 また、床壁天井によるモノとしての建築の構成や、内部の機能の充実だけでなく、外部空間を積極的につくり出して、それによって豊かな居住環境の確保を目指す諸氏も少なくない。彼らには、都市のなかであっても、「ありのままの自然」(「田園」)を感じながら暮らしたいとの“渇望”が原動力となっているはずだ。

 建築をとりまく既存の環境に気をつかい、なるべく自然に建築に近づけ、モノよりも気分を作りたい、との想いが、先進的な建築家たちには密かに共通しているのではないか。それはいわば、「都市」への志向から「田園」への志向へと建築家の観念が転換されている、と見ることができる。

 さて、ここでふたたび80年前を振り返ってみよう。日中戦争が熾烈を極めるその前夜、日本には、戦後建築思潮の方向性を左右したふたりの建築学生がいた。ひとりは丹下健三、もうひとりは立原道造である。

 戦後日本の建築・都市の発展には、丹下健三(1913-2005)が大きな影響を与えていることは論をまたないであろう。若き丹下の学生時代、一級上には、夭折の詩人として名高い立原道造(1914-1939)がいた。立原は、晩年の丹下に「立原道造から刺激を受け、建築家になることを最終的に決意しました」2)と言わしめるほどの光芒を放った存在だった。立原は、丹下が一度しかとらなかった辰野賞(設計課題の優秀作に与えられる賞)を三度受けるほどに建築家としての才覚を期待された人物だった。

 その立原道造は、夭折のために建築家としての実作はほぼない。しかし、たくさんの透視図といくつかの論稿を残しており、そこに立原の建築観を認めることができる。

 立原の透視図の多くでは、建築が単体では描かれず、常に周囲の自然環境が豊かに添えられ、まるで建築が自然の一部であるかのように描かれていた。なかには、背景であるはずの山を大きく雄大に鮮やかに描き、建築はその風景に溶け込むように端に小さく淡く描かれたものまである。

 また、立原は評論「住宅・エツセイ」の中で、人間の生活を考えるうえで最も重要な建築のタイプは、公共建築でも産業建築でもなく住宅であると論じていた。近代の受容期にもかかわらず、立原は、建築の記念性や合目的性といった物質的な価値よりも、そこでの生活や体験といった非物質的な雰囲気や佇まいを大切に思う建築家であった。

 隅田川沿いの問屋街に生まれ育った立原は、都市に暮らしながらも大川端の自然に触れ、やがて詩作の舞台でもあった避暑地、浅間山麓での村暮らしを通じて「田園」の豊かさを知る。立原は、「都市」ではなく「田園」を意識して建築に取り組み、自然風景との関係を建築のあり方のよりどころとした。

 立原のこの田園志向は、丹下の都市志向と好対照をなしている。しかし、立原は戦後を生きることができず、丹下は戦後の建築を牽引する存在となった。丹下や彼に続く戦後の建築家は、とにかく都市を再興・発展せねばとの渇望から、都市に寄与する建築を作り続けた。

 建築に携わるすべての人の目的は当然、建築をつくることである。しかし、建築を“つくる”ことは、建物を新築、増築、改変することだけではもはやない。減築の発想が拡がりつつあり、「つくらない建築家」との標榜が聞こえ、そして3.11以降、「田園」出身の建築家をはじめとして親自然的な建築のあり方が目指されている。

 もはや現代の先進的な建築家の“渇望”は、「都市」ではなく、「田園」に向きはじめている。建築家のなかの立原的DNAが覚醒をはじめている。

 建築は、単に内部を包み込む箱の装美であってはならない。建築や都市は、経済性や記念性の文脈でのみ語られるべきではない。そこには、近現代の建築がフロンティアとし続けた以前の先住民である「田園」が常に存在することを忘れてはならない。ちょうど80年前に活躍した立原道造が、我々に改めてそう教えてくれている。

 「おお、装美、汝病めり!」との声が、どこからともなく聞こえてきている。



1) 池田武邦『大地に建つ』(ビオシティ, 1998.12), p.13
2) ローランド・ハーゲンバーグ『職業は建築家 君たちが知っておくべきこと』(柏書房,2004.11)p.152

(「建築設計」3号, pp.20-21, 日本建築設計学会発行,2016.4 掲載)