「住宅・エツセイ」と「建築の本質」 ―「建築の本質」『建築文化』1962年2月号 読考


2018/05/29 種田元晴



 記事が発表されたのは1962年の9月。
 この年は、伝統的意匠による乃木神社社殿と近代的意匠による法政大学62年館がともに竣工した年であった。
 大江の50年代は、一連の近代的な学校建築の設計に捧げられた。
 学生時代にあこがれた西洋由来のモダニズム建築をどうにか日本で実現させたいと願って手掛けた「法政大学53年館」(この建築のどこがどのように純粋なモダニズム建築たり得ているのかは、大江やその同時代の日本の建築家たちの学生時代に、彼らの建築観形成に多大な影響をおよぼしたル・コルビュジエらの作品と比較しながら改めてじっくりと紐解かねばなるまい)を皮切りに、つづく「法政大学55/58年館」「丸亀高校」などには、工業生産的な西洋礼賛のモダニズムが遺憾なく発揮された。
 その一方で、これらの設計を通じて、モダニズム一辺倒であることの限界をも感じとる(その萌芽は、「法政大学53年館」と同時期に手掛けた、これとは対を成す手工芸的オリエンタリズムを醸した「東洋英和女学院小学校」にみてとれる)。
 そして、梅若能楽学院の設計依頼を受けたことを契機に、大江は、自らの素養として血肉化されていた日本の伝統を建築表現の拠り所とすべきでは、との想いに目覚めることとなる。
 この文章は、そのような背景を経て書かれたものであった。
 文章は、伝統と近代に関する4つの話題が交互に編まれて展開している。
 いわば、大江がのちに「混在併存」とあらわす自らの建築観がついに大成したことを高らかに宣言した、建築家としての決意表明の一文であった。
 論は足下からはじめられる。
 日本人は、家に帰ると靴を脱ぐ。
 靴を脱ぐということは、足を無防備にすることである。
 無防備であるから、傷つきやすく、感じやすい。
 「そと」を裸足で歩いたならば、泥に汚れ、破片に傷つき、道の熱さに疲弊するであろう。
 逆に、「うち」で靴を履くのは、けがれを持ち込むようで気持ち悪い。
 「うち」とのひと言で家庭も家屋もいっしょくたにする日本人であるが、しかし、「履物を脱ぐ」所作によって、「そと」とは物理的にも精神的にも切り離す。
 壁一枚で建築の内外を二元論的に規定する西欧的な合理主義では、日本の建築は成り立たない。
 目に見えぬ心理の移り変わり、諸行の無常さにこそが要である。
 それは、建築の構成要素としてだけでなく、それを使う肉体の所作としても表現されるものである。
 であるから、目的に向かってまっすぐに進むことなど忌むべきことである。合目的性は日本の空間にはそぐわない。
 心の移ろいとともに動的に変化する間積りこそが重要である。そのような趣旨の話が延々と続く。
 しかしその頃、世は目まぐるしく合理を追求してやまなかった。
 記事が書かれる前年の1961年は、石油化学工業の急発展の代償として四日市ぜんそくが問題となった年である。
 東京では路上のゴミ箱が撤去され、ゴミ収集が開始された。
 初の自動車専用道路である京葉道路も開通。
 坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした。
 そして1962年、東京は世界初の1000万人都市となった。
 『ニッポン無責任時代』が公開され、無邪気に機械的に組織のために働く企業戦士を嘲笑う。
 東京オリンピックに向けて右肩上がりに工業、物流の発展が高度に加速し、誰もが同じ方向を向いて、大量生産、巨大構築に躍起となった頃だった。
 社会の情勢に追従して営まれる建築の世界もまた、「技術革新の旗標にかくれて、巨大主義のムードに便乗しようとする気配が次第に支配的になりつつある」状況だった。
 そんな時期に、ひとり大江は(いや、植木等もそうだったか)、「いま建築家がともすれば落ち込み易い危険性がどこにあるかを確かめ、さらにその使命が本来一体どこにあるのかを、いま一度はっきり把握する必要があろう」と、技術革新に気を取られて建築の本質を見失ってはならない旨を説く。
 その本質とは、かつては当たり前に存在していた、伝統的な価値観であると大江は説く。
 当時それは完全なる時代錯誤な警句であったことであろう。
 大量生産大量消費を是とする高度経済成長期のただなかにあって、サラリーマンというその「生産力増強に対して強力な資源」を供給するベースこそが無機質な住宅団地であり、それは高度な機械化によって年に365個以上の卵を産む高効率な鶏を飼育する鶏舎になぞらえられるほどに不健全な収容施設であることに大江は憤る。
 「少なくとも自ら建築家と名乗る以上は、あくまでも人間の側に立ってその生活の場の独立を防衛し、個人が喪失しようとしている自主性を積極的に回復すべき方向にその社会的職責を明確に自覚すべき」と厳しく自己反省する。
 ところで、伊東豊雄は近著『「建築」で日本を変える』の冒頭において、近代建築に収容される民衆は「ケージに入られた鶏」のごとく扱われてきたが、もはやそのような価値観は社会にそぐわなくなったとの警句を吐いている。
 この言葉は、量から質の時代となり、東日本大震災を契機にコミュニティの復権が果たされた現代の諸氏には、容易に響く言葉であろう。
 しかしこれと同様のことを、大江は半世紀前にすでに語っていたのだった。
 その先見性に溢れた慧眼には驚くばかりである。
 さて、大江のこの決意表明文には、どこか立原道造は「住宅・エツセイ」との共通点が見出される思いがする。
 立原は「住宅・エツセイ」の冒頭で、建築を住居建築、公共或いは記念建築、産業建築の3つに分ける。
 このうち産業建築は、工場・倉庫などの生産施設を指すが、これを立原は「『全く機械それ自身』であるところの建築」とする。
 そして、「本来の意味での建築は、『全く機械それ自身』でとどまる所にはとどまつて居られるものではない」といって、「僕は、これを今日以降、僕らの常識する建築の範囲から除かう」といって退ける。
 次に、公共・記念建築であるが、これは「図書館・美術館・音楽堂、公会堂・市庁舎・議事堂・百貨店等、更には銅像の台座・講演の涼亭などに至るまで、すべて住居建築以外の建築」を指している。
 これらには、「人間の生活に切実に密着することが要求されてゐない」美学的なものであるとする。
 そして、「今僕はより多く『人生』と触れる立場にゐて建築を考へたい」と述べ、その本分を住居建築=住宅にこそ見出し、「住宅の形態の、外に見える形態でなしに、内にひそんでゐる精神、それもおそらく限定された、ただ人間の家常茶飯の生活にばかり触れる面、つまり理想とか憧憬などといふ側の一切の精神をそれてしまつた精神の面を取り上げよう」といって、人生の家常茶飯に触れて綴られるエッセイとの関連を語りだす。
 後半では、人生を中空にボールととらえて、住宅がその表面、エッセイがその裏側の面であると述べ、生活の芸術性を説いている。
 この立原の小論で示されている建築の非機械性、生活へのまなざし、建築の形態ではなく、その内にひそむ精神を重視する視点などは、大江の「建築の本質」にそのまま受け継がれている。
 立原の「住宅・エツセイ」が発表されたのは1936年の木葉会機関誌『建築』再刊第一号においてであった。
 編集を手掛けたのは大江と同級であった丹下健三であった。
 すでに追分での交流を通じて立原と親しくなっていた大江も当然、この文を読んでいただろう。
 大江の陰に立原あり、の一幕である。
 ちなみに、「追分の山荘」は「母屋」と「寮」の二つから成る。
 母屋は大江自身の山荘で、寮は社員旅行や学生を連れてのゼミ合宿などに利用する施設として同じ敷地内につくられた。
 「母屋」の竣工は1961年の夏前(新建築では1960年となっているが、大江新氏によればこれは間違い)。
 「寮」の竣工は1962年12月頃であった。
 大江家に残っている「寮」の確認申請図面の日付は1962年10月となっているが、このときすでに工事は始まっていて、完成前にあわてて出したものだという。
 冒頭に記したとおり、「建築の本質」の記事が発表されたのは1962年の9月であった。
 つまり、「建築の本質」の記事発表時には、「追分の山荘」の寮棟の設計がちょうど完了した時期と重なっている。
 別稿にも記したとおり、大江の「追分の山荘」は、立原の卒業設計に示された「Lodge」をそっくりそのままに具現したかのうような建築であった(|エッセイ|>|宏と道造 ―「追分の山荘」の建つ敷地とその謎|を参照)。
 「追分の山荘」=立原道造の建築へのオマージュの設計と同時期に書かれた「建築の本質」は、やはり、立原道造への想いを馳せつつ書いたものであったのではないかと思えてならない。