ダウンサイズ ―コメディでないコメディ

2018/03/05




[基本情報]
評 価|★4.5
監 督|アレクサンダー・ペイン
制作国アメリカ
制作年2017
場 所映画館(新作)
時 間135分



[ストーリー]
 人口が増え続け、住みづらくなってしまった地球。
 科学の進化によって、なんと人間を1/14に縮小する技術が発見された。
 ネブラスカ州オマハに住む、いたって平凡な夫婦、ポール(マット・デイモン)と妻オードリー(クリステン・ウィグ)。
 低収入でストレスの多い日々を送る二人は、大金持ちで、大豪邸に住めるダウンサイズされた世界に希望を抱き、13cmになる決意をする。
 しかし、ミニチュア化したポールに待ち受けるのは予想外の人生だった…。
(映画『ダウンサイズ』公式サイトより引用)



[鑑賞メモ](以下、ネタバレを含みます)


 コメディと説明されるが、この映画は単純に笑われるような映画ではない。

 予告編に騙されてはいけない。予告編は、あまりにもただのコメディであるかのように編集され過ぎている。実際に観てみれば、予告編とはまったく異なる印象を持つに違いない。

 この映画は、コメディではない。どちらかというと、笑うしかない状況を真剣に描いた映画かもしれない。

 上映時間は比較的長い。そして後半をじっくりと描くべく、前半の展開はきわめて早い。しかし、はしょられている感はない。時の流れを少ないカットで、しかもちゃんとドラマチックに展開させている。その都度、鍵となる人物を過不足なく描き、しっかりと観客に感情移入させているからだろう。

 そして、後から出てくる人物ほど、人生の転機を導く重要な人物である点がまた、観客を飽きさせない。それらの人々は、一見主人公とは直接関係のなさそうな人物として登場する。主人公を取り巻く状況を説明するための、余談のためのキャラであるかのように出現する。

 物語が進むと、再び彼らが登場する。しかし今度は、主人公にとって大切な存在になる人物として、現れるのである。いちいち、登場する人物がどうでもよくなく描かれるのだ。だから観客は、今度出てきたこの人は、どういう重要な人物なのかな?と流さずに見入ってしまうのだ。

 なかにはもちろん、そのシーン限りの人物も多々いる。しかしいつしか、彼らが再び現れることをどこかで期待しはじめてしまうのである。実に秀逸な引き込み方といえよう。

 冒頭に記したとおり、この映画はコメディらしくない。淀川長治の日曜洋画劇場を観て育った筆者にとって、コメディと聞くと、エディ・マーフィやダン・エイクロイドやジム・キャリーやらが、色々とやらかしては運良く物事が解決して、マヌケな敵が自業自得となり、そして主人公たちはハッピーエンドを迎える、というたぐいの映画をつい想像してしまう。

 その点では、まず主演にマット・デイモンを起用している時点で、観客に「これはコメディですよ」との先入を許していない。また、扱うテーマがSFで、しかもやや重い。この映画がコメディに分類されるのだとすれば、それはシリアスではない、というだけのことであろう。なにしろ、悪いやつがひとりも登場しない。誰も騙さず、陥れず、死なせない。

 ところで、SFには、単なる「サイエンス・フィクション」である場合と、「スペキュレイティブ・フィクション」である場合がある。

 前者は、単に空想世界を舞台としているだけのもの。後者は、仮想世界を描きつつ哲学的な問いをたて、現実への問題提起をしたものである。前者は見終えるとスカッとするが、後者は見終えたとき救われない気持ちになる。前者とコメディは相性がよく、後者はサスペンスドラマとなることが多い。そして、『ダウンサイズ』はスペキュレイティブ・フィクションなのだ。

 確かに、人がちっちゃくなれば地球に優しい!というテーマはバカげているし、小さくなる技術がレンジでチン!な点もふざけたものである。しかし、ギャグ要素は少なく、音楽は重く美しく、出演者たちの面持ちは終始神妙である。

 唯一神妙でないのは、怪優クリストフ・ヴァルツその人である。いつもの不敵なあの笑みは、どっちに転ぶかわからない。彼の存在とその所作が、この映画をその都度に、コメディにもサスペンスにもならしめている。

 ヒロインと主人公との船上でのあのシーンのあとに、ウド・キア(彼もまた、非人間的な怪しさと妖艶さをまとって、老齢とは思わせない展開予測不能な佇まいをたたえている)がセリフを述べる場面の背後で、終始無言で全てを悟ったかのような怪しい笑顔を微動だにせずに浮かべ続けたヴァルツの存在感が、いつまでも強烈に焼き付いて離れない。笑いどころに違いないのだが、彼の笑みのあまりの不気味さに、笑うより恐怖することが要求されたかのような気持ちにすらなった。

 コメディらしくない点の指摘に戻ろう。映画が進むと、小さい人間と大きな人間の市民権の大きさに不平等を唱える人物までもが登場する。小さな人間になれば消費も輩出も費用も小さくなる、との無邪気なビジョンは確かに素晴らしかった。しかし、それを施せるのは、その高くはないけれど安くもない施術費用が払えて、かつ健康な身体を持つ中流以上の人間に限られるのであった。本当に貧しい世帯や、人工物によって身体が守られている者はその恩恵にあずかれない。なにより、小さくなった人々を支えているのは、大きいままの人たちなのだ。格差は広がるばかりである。

 そして、やがてその小さくする技術は、犯罪に用いられることになる。望まれず小さくされた人々が増えてゆく。小さな世界はもはや金持ちたちの楽園ではなくなった。大きな世界と同じように、格差が生まれ、治安は乱れ、統制がきかなくなってゆく。

 一方で、統制の網目をくぐったところには、人本来の活動が溢れ出す。文化の多様性がそこにはたしかに息づいていた。はじめは汚いもののように描かれたその集落は、いつしか豊かで自然な理想郷であるかのように描き変わる。

 結局、小さくなろうがなるまいが、人の世は変わらない。色々な人がいて、思い通りにいかず、しかしふとした小さな幸せがそこここに転がっている。己の境遇見つめ直したとき、変えるべきは己の姿かたちではなく、己の心持ちであること気づくのだ。人生とは滑稽なものである。

 その滑稽さをあぶり出しているという点で、この映画はやはりコメディだったのかもしれない。