縦の意匠・館の移床 ―茨城県公館を訪れて
2017/12/14 種田元晴

 大江宏の建築を特徴づける決定的な要素が2つ挙げられる。細身の丸柱と、緩勾配の方形屋根である。1974年に建った茨城県公館にも、この両者が共存する。

 立面を特徴付けるのは、バルコニーの先端に列をなすプレキャストコンクリートの丸柱。大江の用いる丸柱には、中空のものと充填されたものとがあるが、こちらは充填ものである。5年後に奈良は天理に手掛けられる石上神宮では、中空のプレキャストコンクリート丸柱が使われていた。石上神宮ではコの字に壁が丸柱を避けるように回されていた。壁とほぼ接しつつ、わずかな隙間によって分かたれた構成であった。この壁と柱の関係も大江がよく用いる構成である。1983年の国立能楽堂にも見られるものである。一方の茨城県公館の柱は、壁から遠く独立している。

 これらの丸柱は、いずれも建築の主要構造部としての働きを持たない。いわば飾りの柱である。ではなぜ充填されたものと中空のものがあるのか。両者の使い分けを推察してみたい。

 石上神宮の丸柱は壁に囲まれていた。つまり、風や地震による横力は周囲の壁が受け、柱自体は水平力をほぼ負担することはない。一方の茨城県公館の柱は、バルコニーの手摺りのさらに先に、何人の手も差し伸べられることなくひとり危うげに突っ立っている。こちらの柱は自重(と経年劣化による片持ちスラブ先端のわずかな下がりがあるいは彼をわずかばかり拘束する)のみで自立している。風やかすかな揺れにも自重で耐えねばならないため、自重はある程度の重みがなければならない。そのため、充填ものが使われたのだと推察する。

 洋風の佇まいを持つ公館、客をもてなす和室、知事が住まう公舎が雁行して並び、それらをL字型の外廊下が接続している。廊下はまた、表玄関の車回し・車寄せ部分と建物との間に視線・動線を遮る緩衝領域としての役目も果たしている。整形な敷地に対して、これらの建物群はやや北角側に表庭を囲むように配され、南角を広く残し、明るく開放的な庭がここに設えられている。南側の庭は、和室の縁側越しに、または公館の食堂から眺められ、アプローチできる公的な領域である。東側の西側に配された公舎は、この公的な庭からすこし距離を置き奥まって建つ。私的な領域が巧みに確保された配置である。

 この敷地と庭と建築との関係は、平面的には実に豊かな構成と見受けられる。しかし、訪れてみると、どうもやや淡白な印象がぬぐえない。それは、敷地の平坦さに由来するのかもしれない。都市の中心部に位置するこの敷地にはほぼ起伏がない。用意された敷地は、整形で平坦なあまりにも合理的に過ぎたのだった。そのために、庭が建築の前にのっぺりと広がっているかのようである。

 整形で平坦な敷地にいかに変化に富んだプロセッションを与えるかに大江はさぞ苦労したことだろう。水平方向のプロセッションは先に述べた構成により、見事に解決されている。しかし垂直方向は難儀のあとが見られるのだ。これを解消するかのように、公館のエントランス上部にメザニンを配し、スキップさせつつ方向を変えて奥へと進ませる空間構成がとられている。しかしやはり、庭と建築との関係がやや貧しい。

 このときに直面した問題を解決する機会は2年後に訪れる。芦屋の苦楽園の家である。この豪邸に与えられた敷地は、由緒ある実に起伏にとんだものであった。この地で大江は、茨城県公館での知見を活かし、これをさらに進化させた建築を実現する。洋館と和室が連なる構成、方形屋根に扁平アーチの欄間が穿たれた構成は、ここでも再び用いられたのだった。

茨城県公館 北側全景

茨城県公館 玄関部分 

 茨城県公館 食堂

 茨城県公館 メザニンへの階段

 茨城県公館 2階ホールからメザニン部分を望む

 茨城県公館 バルコニーの丸柱

 茨城県公館 正面車寄せ

茨城県公館 和館と洋館の併存