大江宏・内田祥哉対談
「能の構成・建築の構成」(『ディテール』1984年1月)読考
2017/11/16 種田元晴
大江宏は正方形が好きなのではないか。
冒頭、対談の主題である「国立能楽堂」について、「一つ一つのかたまりが正方形を成して連なっている」と内田が指摘する。これを大江は、複数のサブストラクチュアが重畳してひとつのトータルストラクチュアを形成する旨を説く。この説明を内田はいかにも能空間らしくない旨を突っ込んでいる。
大江宏にとって、国立能楽堂は、能楽堂であってもやはり近代建築なのである。近代建築は、その合理性を追い求める思想から極力簡素な矩形を前提とし、工業製品を活用することから反復を前提とした形態構成となる。大江の語る「ラショナル」は、近代合理主義にとっての要といってよい。これを突き詰めれば没個性な鶏舎となる以外にない。だから、「建築というのは、ひとつのラショナリティで押していって、しかし最後までラショナルであったのではダメ」で、「最後に情念が表現される……、それが絶対不可欠」というわけである。
一見矛盾をはらんだ大江のこの想いを実現するかたちとして、正方形があるのではないか。正方形は極めて「ラショナル」な図形である。円とともに幾何学的抽象性を表現する最も基本的な形態のひとつであるといってよい。一方、これを屋根にもちいると、方形となる。方形屋根は伝統的に用いられてきたかたちである。正方形は、モダニズムと伝統のいずれをも表現できるかたちとしての特性をもつ。
大江が最初に正方形を用いるのは「中宮寺御厨子」であった。
「追分の山荘」寮棟(1963)は、立原の卒業設計へのオマージュであったのでないかとの問題提起をした。ほとんどの構成がそっくりであった。しかし決定的に異なる部分があった。屋根である。煙突がある方の屋根だ。立原のそれが長方形平面の寄棟であったのに対し、大江のは方形である。立原のそれを忠実に再現しかけた大江も、方形は捨てられない。方形屋根は立原は選ばないかたちだ。方形を選ぶことで、「追分の山荘」は決定的に大江の作品となっている。ちなみに、母屋(1961)の平面形態は、正方形をふたつ並べたものであった。
「ウォーナー博士像覆堂」(1971)も正方形が意識されている。天心ゆかりの正六角形を選ばず、日本武道館で山田守が用いた正八角形も退けた。故事にちなめば、円は天(陽)を示し、四角は地(陰)を示す。円はコンパス(規)を示し、四角は定規(矩)を示す。規(コンパス)は古代中国に君臨した三皇五帝のうちの伏羲が手に持ち、矩(直角定規)はおなじく女媧が持つ。伏羲と女媧は八卦を生み出したとされる。夢殿は八卦よい形態、天に近い形態として八角堂とされたという。八角形は円と四角の中間の図形であると宮崎興二はいう(『夢殿はなぜ八角形か―数にこだわる日本史の謎』)。そんな八角形のありがたさを意識しつつも大江の選んだ天蓋は正方形にちかい八角形だった。母なるマザーランドを意識し、地に近い形を天に頂いたのか。
左より、方形屋根、ウォーナー博士像覆堂の屋根、八角堂の屋根、天壇の屋根
「普連土学園」も方形屋根をランダムに並べて、幾何学的でありながら伝統を感じさせる群造形を実現している。
「乃木会館」は大小二つの正方形平面を連結している。小さい方は陸屋根がかさなっており、大きい方には方形屋根がかかっている。「乃木神社」の参集殿も正方形平面だ。
「マリアンハウス」も正方形平面が散らばって連結されている。大きな正方形には方形屋根がかかっている。中庭も正方形の平面形状である。
「九十八叟院」は方形屋根に瓦を乗せ、そりをつけている。いかにも書院造の建築らしい空間構成でありながら方形にこだわることで、どこか幾何学性を感じさせている。
「茨城県公館」にも正方形平面が点在している。
正方形が現われるのは屋根ばかりではない。「55/58年館」や、「梅若能楽学院」、「メキシコ大使館」などでは正方形の有孔ブロックが好んで使われた。「香川県文化会館」では、正方形が市松模様として使われている。「東京讃岐会館」の玄関ホールには立方体を組み合わせた照明器具が下がっている。ワッフルスラブも見ようによっては角が丸まった正方形の連続である。「丸亀武道館」にも立方体単体に正方形格子が施された照明器具が使われている。
しかし、能楽堂以降の建築に正方形は少ない。これは混在併存への懐疑とも重なるのではないか。