第三の軸
太田博太郎・大江宏・神代雄一郎鼎談
「いま、建築家は何を生かすべきか」
(『原色現代日本の美術17巻』1979年10月)読考

2017/08/08 種田元晴


 太田博太郎(1912-2007)、大江宏(1913-1989)、神代雄一郎(1922-2000)による鼎談記事。神代が選考委員をつとめ、太田と大江が受賞した毎日芸術賞の受賞作についての話題から始まる。太田は妻籠宿の修景によって1976年に、大江は丸亀武道館の仕事によって1974年に同賞を受賞していた。

 話題は、大江の角館伝承館についてめぐってゆく。大江は、ここを〈小京都〉と言い表した神代の紹介に想像を膨らませ、現地を見ることなしに仕事を引き受けた。ここに先人の〈日本の文化の中心みたいなものを、東北の辺境につくろうとしたロマン〉を直観的に感じ取った大江は、その想いに敬意を表し、しかし、保存された街並みをそのままに引用することなく、太田をして〈相当な決心がいる〉デザインを実現したのだった。

 通産省、秋田県、文化庁の3つの役所の予算の取りまとめに、さぞやご苦労されたでしょう、との神代の問いかけにはまるで答えていない。そんなことは全く気にもならなかったとの様子である。いかに角館の仕事が大江を夢中にさせたものであったかがうかがわれる。

 歴史を踏まえつつも、しかし神代の関心は現代建築へと向けられている。現代建築が歴史をあまり必要としていないのでは、との危惧があるかのようだ。ポストモダン建築を憂いてのことであろうか。

 神代は、太田も現代建築と歴史とを結びつけることに苦労しているはずだろうと踏んでいる。しかし、〈苦労しているわけですが…〉との神代の問いかけに、太田は〈苦労したといえるかな〉と、ややそうでもなさそうな返答である。保存についての考え方でも両者はやや異なっている。神代は、芸術性を考えてその後に手を加えられた跡をよしとしている。一方、太田は、せっかくその時代を代表するものを指定して保存するのだから、元の設計者の意図を汲むべきとする。歴史観の相違が見て取れて興味深い。

 大江、太田、神代ともに、従来の、ただ記録と考証だけを行うような建築史学へは批判的である点は共通している。太田ですらも、このような建築史は〈知識のクズ籠に放りこんでしまってもいい〉ようなものであるという。そして、三者ともに、理想とすべき建築史学の在り方を堀口捨己の論考に見出している。堀口は、設計をするために歴史を学んだ。そして、歴史をひもとき、設計された空間の真価を理解しなければ、設計などできないことに気付いた、と太田は見る。

 末尾、いまの建築家はなんでもかんでも壊して新しい建物を建てればいいものが出来ると信じている」と太田が述べている。鼎談が行われたのは、1979年。高度経済成長期を終え、成熟へと向かいつつも、まだまだどんどん作っていく時代。現代とは少し様子は違っていよう。しかし、歴史家はますます現代建築を論じなくなり、建築家はますます歴史を語らなくなっている。神代に限って言えば、鼎談の趣旨は、歴史家がなにをすべきか、との問いのようにも思えなくもない。

 鼎談の問題提起は、現代を生きる我々(というか私)にとっての問題でもあるように思う。

丸亀武道館 正面

丸亀武道館 武道場

角館伝承館 正面

角館伝承館 中庭

角館伝承館 休憩室