「石柱の歌」への想い

大江宏・小谷部育子対談
「建築に中心はあるか」(『建築雑誌』1987年12月号) 読考

2017/07/11  種田元晴


 1987年12月号の「建築雑誌」で、「中心と周縁」という特集が組まれた。特集の趣意文曰はく、建築のデザイン・研究は、政治、経済、文化の中心(=大都市)ばかりを集中的に題材としてきたが、情報社会となった今、周縁(=地方)へも目を向けて、より多極的分散的な社会の在り方を考えようではないか、といった意識のもとで、現状の問題点を露わにしようとのもくろみであった。

 大江はこの特集の巻頭企画として、当時の「建築雑誌」編集委員であった小谷部育子からインタビューを受ける。冒頭、やや唐突にポストモダンについて小谷部が言及してはじまる。ポストモダンは、近代という中心が捨て去った周縁を中心に拾い上げたものであり、周辺と中心という対立構図を前提にしている、と小谷部は言う。大江先生はそのような対立構図で建築をつくってないですよね、と問う。

 つまり、大江先生の建築は、世間ではポストモダニズムだなんて言われてしまうことがあるようですが、それとはまったく違うものですよね、といった含みがあるかのようであった。この唐突な冒頭部分の前には、記事にはできなかった、そのような重要な問答があったような気がしてならない。

 いずれにせよ、大江は、建築をデザインする際の中心は「渾沌」というよりほかにない、と言い放ってはじめるのだった。ありのままの自然に人間本位の構造を与えたらもとの自然が死んでしまった、という荘子の「渾沌」を語り出す。小谷部はまったく解せないでいる。能楽堂を例に挙げて説明するが、「柱はついに本来の志を遂げることはできなかった」などと言い出し、虚の柱と実の柱の話を続ける。小谷部はますます混乱し、この発言を拾えないまま話題を変えるしかなかった。

 さて、対話を追ってみていたら、ふと、立原道造の「石柱の歌」を思い出した。立原は、柱にこだわった。ただ、立原の「柱」は、建築としての役割を終えた、廃墟にたたずむ柱だった。何も支えない、構造でない柱である。何も支えていないのに、しかし、強く立とうとしている。詩を引いておこう。

 私は石の柱……崩れた家の 台座を踏んで
 自らの重みを ささへるきりの
 私は一本の石の柱だ——乾いた……
 風とも 鳥とも 花とも かかはりなく
 私は 立つてゐる
 自らのかげが地に
 投げる時間に見入りながら
 歴史もなく 悔いも 愛もなく
 灰色のくらい景色のなかにひとりぼつちに
 立つてゐるとき おもひはもう言葉にならない
 花模様のついた会話と 幼い痛みと
 よく笑つた歌ひ手と……それを ときどき おもひ出す
 風のやうに 過ぎて行つた あれは
 私の記憶だらうか また日々だらうか
 私は おきわすられた ただ一本の柱だ
 さうして 何〔なに〕の 廃墟に 名前なく
 かうして 立つてゐる 私は 柱なのか
 答へもなしに あらはに 外の光に?
 嘗ての日よりも 踏みしめて
 強く立たうとする私には ささへようとするなにがあるのか!
 知らない……甘い夢の誘ひと潤沢な眠りに縁取られた薄明のほかは——

 立原の「柱」は、人間の与えた構造としての役目を終えている。便利さや効率を失っている。しかし、それでこそ踏ん張っている。もともとは人間がつくったものだったに違いない。しかしそれは記憶の彼方である。もはや、もともとそこにあったものとして、立原の「柱」は描かれている。もともとそこにあったもの、つまりそれは自然である。立原の「柱」は、すでに自然と化しているのだ。柱としての実存性はかなり低い。しかし実存している。

 立原の「柱」は、大江の夢中になれる建築の在りようをよく表しているのではないか。青春時代に光芒を放って通り過ぎた立原のことを思い浮かべながら、大江は語っていたのかもしれない。