問わず語りの建築の本源

「ものづくりの初心」(『季刊アプローチ』1984年9月号、村松貞次郎との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考

2017/06/06  種田元晴


 竹中大工道具館の開館に際して、竹中工務店の季刊誌「アプローチ」上で、村松貞次郎と大江宏の対談が行われた。

 かつては、建築の仕口・継手ごとに異なる道具を用いたが、今日の建築生産の現場では、むしろ単純で、使う道具の少ないほど、品質管理のうえでも歓迎される、と村松。そんな現状に大江は、絵を描けばそのとおりに難なくできてしまう状況は危険、と警句を発する。

 一例として、自身の実質的なデビュー作である法政大学53年館を挙げる。53年館は、CIAMの掲げた「建築の工業化」を目指した近代主義的意匠の建築ではあるが、しかしその実、標準化や量産によってつくられるはずもなく、大工による手仕事に頼るところ大なりであった。結局は、よい建築には、手づくりの感覚が不可欠であると実感している。道具館には、大工技法と工業生産という両極の概念が併存しているところに存在意義がある、と大江は読む。ここまで、比較的に大江は饒舌である。

 村松は、大江の話を、ものづくりにおける「初心」として重要である、と受け取る。道具館に込められた竹中の想いを「棟梁の初心」といった。次第に話題は、建築はアーキテクチャーか商品か、との議論へ。大江は、「歴史意匠」こそが、アーキテクチャーであることを担保すると主張する。「歴史」と「意匠」でなく、「歴史意匠」。伝統を重んじる歴史と、科学的であろうとする意匠。両者は分離して考えられてはいけない。大江が熱く語る。

 近代化によって、歴史意匠は、切り分けられていった。やがて、実証科学を追求する機運の高まりとともに、意匠の分野に、計画学が生まれる。生み出した吉武の発想の新鮮さは素晴らしかった。しかし、後に続く者たちは、いつしかなんのための計画学か、との初心を忘れ、建築の本源を見失ってゆく。分離によって、建築は本義を失うのでは、との危機感が大江にはあった。

 これに対して、村松は、建築学の歴史は専門分化の繰り返しであったと前置く。そして、専門分化が必ずしも悪いのではなく、それによって建築家が新たに抱えるものを持たなくなり、身を細めてゆくことが問題であると説く。大江はここでまたもや、ヴィオレ・ル・デュクに言及する。歴史意匠を一体として受け止めた一人として挙げた。どんな文脈であっても、持ち出す話題が一貫している。

 ところで、布野修司が『戦後建築論ノート』でも言及したように、村松は、個人主義的なアトリエ建築家よりも、組織力、技術力をもつゼネコンこそがこれからの建築を支えると考えた人物である。そして、この対談のちょうど10年前、組織力による巨大建築に苦言を呈した神代雄一郎にとどめを刺した人物でもある。建築は人の手による営みであるという神代の主張は、上記の大江の建築の本源が忘れ去られるのではないかとの危機感と通ずるものであった。神代は、大江のよき理解者でもあった。

 しかし、村松の側からすれば、個人の建築家の方こそ、図面一つ描けば業者がなんとかしてくれるという甘えを含んだ、「モノ」にしていない輩なわけで、「インター」の時代にはその態度は許容してもいいが、ただし、それを支える蓄積された組織的技術力なくしてはもはや建築は建ちえないとの実感であろう。問題は、巨大かどうかではなく、作り手に実感が伴われているか、であるということだろう。

 末尾で大江は、材料を扱う際にはつかず離れずの関係が重要と述べる。モノに貴賤はなく、互いの相互関係を、愛情を持ってどう併存させるかが重要と説く。個人で新たな問いをたてる建築家と、古きを知って技術を振うゼネコンとの上手な付き合い方を暗示させているかのようである。