ヒアシンスハウスを抜ける風

2017/06/29 種田元晴


 隠れ家をもつことは、誰にとっても夢であろう。現実は厳しく、日常は複雑である。その厳しさの要因は、容易には明らかとならない。

 文豪・芥川龍之介は、〈ぼんやりとした不安〉をかかえて命を絶った。立原道造が、芥川と同じ府立三中に入った年のことである。敬愛する作家の自死は、健やかでありたいと願う病弱な立原にはショックだった。なぜなのかと自問した。自らを納得させるべく出した答えは、自然と比べて短い命を嘆かれてのこと、というものであった。自然を意識し続けた立原らしい答えだった。

 芥川が吸うのをやめた空気を吸って、立原は育つ。やがて、〈ぼんやりとした不安〉への理解を示すかのように、都会の喧騒から逃避し、田園の静けさを求めて浅間山麓へと赴く。そこで吸った美しい空気は、たちどころに全身の毛穴から毒気を押し出した。立原は、都会で毒気を溜め込むたびに、身体の換気のために追分へと出かけていった。
職場は硝子の牢屋であった。ただでさえ不穏な空気のなか、最新鋭のビルが吐くエアコンの風までもが立原を蝕む。ひときわの毒気を溜めこんで追分へと向かったある日、いつもの宿、油屋に火が注がれる事態に出くわす。せっかくの吸うべき空気は、火力と化してしまったのだった。

もはやここへ換気に来るわけにはゆかない。新しい空気を探さねば。仕事も忙しくなってきた。この際、もう少し近場でうまい空気を吸いたいものである。水辺だ。水辺がいい。実家は隅田川の水辺であった。しかし、ここの空気はもはや口に合わない。潮風が体に合わないことも幼少期に経験済みだ。ならば、淡水のちいさな水辺がいい。

 湖沼は気圧差を生んでやさしい風を起こす。風のあるところならば、空気は新しい。そうして、ちょうどよい水辺を浦和に見つけるのだった。

 立原は建築を自然と対峙させない。建築を自然に寄せて構想する建築家だった。別所沼のほとりに立ち、心地よい風を感じたことだろう。毒気をすっかり取り除いてくれるこの自然の恵みを、どうにか建築に生かしたい。自然と一体的に建築を仕立てる立原は、そのように想ったにちがいない。

 ヒアシンスハウスはちいさい。間仕切るほどの広さもない。にもかかわらず、内には多様な空間が広がっている。玄関がほぼ中央に、やや貫入している。そのために、一室空間ながら、食う、書く、寝るところが巧みに分けられている。


ヒアシンスハウス


 内部空間の多様さは、機能の分かち方によるばかりではない。なによりも、設けられた窓の適材適所ぶりこそが、その要因ではないか。

 もっとも特徴的なのは、南東角の大きなコーナー窓であろう。腰の高さから天井にまで達している。居間のような憩いのスペースに、ここちよい日照を迎えている。窓先には下草の絨毯が広がっている。ここから外を眺めていると、小さな空間にいることをつい忘れてしまう。


ヒアシンスハウス 南東角のコーナー窓


 振り返ると、目線の高さに横長の窓が伸びている。こちらは北側なので、まばゆくない。計画案では、脇にポプラが植わっている。道を行き交う人との対面を避けながら、草木の広がる方へと視線が導かれている。目にやさしい、集中できる執筆環境がこの窓によってもたらされているのだ。


ヒアシンスハウス 北側の横長窓と机


 西側のベッド脇の小窓からは、夕日の映える別所沼が眺められるはずだった。小さな窓なので、余計なものは目に入らない。ただ水面に映える斜陽が差し込むばかりである。小窓は、風を運ぶのにも役立つ。陸地に比べて温まりにくい沼の水は、昼間に陸に向けて風を送る。沼に面する小さな窓に吸われた涼しい風は、対面する東南側の大きな窓へ向かって抜けてゆく。


ヒアシンスハウス西側の小窓とベッド


 ヒアシンスハウスは狭くない。窓の巧みな計画によって、建築を取り巻く外部までもが、建築の続きとなっているのである。

 ところで、昨年上梓した拙著『立原道造の夢みた建築』は、一見、立原道造とはなんの関わりもない黒姫山麓についての記述で締めくくられている。実際、立原はこの地を訪れてはいない。黒姫山麓には野尻湖がある。野尻湖畔は、軽井沢から移った宣教師たちの避暑地として栄えた。ここは、のどかで空気の美味い、創作にはうってつけの地であった。堀辰雄は、立原の死の直後に野尻湖に滞在し、ここで「晩夏」を書いた。同じ頃、立原と親しかった津村信夫も、野尻湖を舞台とした「みづうみ」を書いている。

 一高時代の友人であった松永茂雄とその弟龍樹も、野尻湖からほど近い戸隠へとよく出かけていた。立原は、松永兄弟から戸隠の魅力を聞き、ここに大きな憧れを抱いていた。龍樹に宛てた手紙には、〈とほく戸隠に鳥のやうに泊つてゐる友だちに――。追分よりも美しい雲と太陽をあこがれて、きつと訪ねて行かうとおもつてゐます〉とある。彼の地への憧れは、追分へのそれ以上であったのだった。

 親しい友人らからは、戸隠ばかりでなく、きっと野尻湖畔の魅力をも知らされていたはずだ。しかし、野尻湖は東京から遠い。毒抜きに行くには気軽な距離でない。通いやすい「みづうみ」を求めた挙句、立原は別所沼に魅了されたのかもしれない。

 ゴールデンウイークも半ばの晴れた日、そんなふうに立原の想いを妄想しつつ、高く遠い奥信濃の五月の風を、沼のほとりで感じてみたのだった。


野尻湖より望む黒姫山


(「風の詩」第10号,pp.4-5,ヒアシンスハウスの会発行,2017.10 掲載)