けじめと独創

「伝統様式を再構築する姿勢と手法」(『建築文化』1984年1月号、磯崎新との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考

2017/05/01  種田元晴


 「つくばセンタービル」についての先の藤森との対談を経て、その返礼であるかのように、大江の「国立能楽堂」について、磯崎と直接議論を交わした記録である。

 対談の前段では、二人の重要な人物を引き合いに出しつつ、議論が展開されている。一人は、大江が「一貫して僕の師匠」という堀口捨己、もう一人は、ヴィオレ・ル・デュクであった。

 ヴィオレ・ル・デュクは、無批判に古典建築を模倣させるボザールの教育に疑問を抱き、中世ゴシック建築へと目を向け、その構造合理性を建築の修復を通じて追究したフランスの建築家であった。近代建築に和風を混在させる大江は、必ずしも歴史実証主義的には建築をつくらない。建築に持ち込む伝統様式を、特定の時代に拘束されず、模倣せず、そこにふさわしいと確信した形式のみを取り入れ、自分なりに現代に合わせてこれを改変し、混在させている。その態度は、ヴィオレ・ル・デュクが、必ずしも建設当時の技術、作法によらず、自らの時代の合理性に則って建築を復元した態度と通ずるものがある。

 一方、大江とは対極的に、伝統をとことんまで抽象化して表現した建築家が、磯崎の師である丹下健三だった。丹下は、香川県庁舎(1958)で、鉄筋コンクリートを用いて、木造建築の柱梁を模した意匠を実現した。大江は、法政大学の校舎(1953,55,58)で、宿願であった近代主義の建築を実現させた後、近代主義建築が捨象した矛盾の中に、建築の豊かさがあることに気づき始める。その大きなきっかけは、堀口のサンパウロ日本館を監理したことであった。堀口は、近代主義を追求しつつも、すべてを合理の名のもとに捨て去ることはしなかった。純粋に抽象化した建築を目指さなかった堀口に、大江は共感を示すのだった。

 ところで、大江は、藤森との対談への磯崎の応答「大文字の「建築」について」(磯崎新編著『建築のパフォーマンス』所収)に関心を寄せる。磯崎が提示する大文字の建築とは、磯崎の言葉によれば、「正統的に、自立した建築的思念に基づいた観念の結晶したようなもので、必ずしも具体的な建築に限らず、言説として組み立てられた総合的な概念と言っていい」ものである。しかし、大江はこれを、言葉でなく、具体的な実体=建築として提示したいと考えている。建築家は文筆家ではないのだから、あくまでも建築をつくることを通じてその意思を示さねばならないとの大江の態度が良く表れた一幕である。

 中段、能のパトロネージに話題が及ぶと、大江は饒舌だ。映画の好きな磯崎に合わせて『ET』や『スターウォーズ』を持ち出して能の仕組みを説明するほどにサービス精神旺盛な語り口も見られる。

 国立能楽堂という近代建築を仕上げるにあたっても、大江は、丸柱、蟇股、斗栱といった伝統の形式は採用しながらも、これらを特定の時代から引用することはしない。色々な時代の魅力を思い起こしつつも、あくまでも、形式のみを採用し、その作り方は、オリジナルなものとする。

 国立能楽堂のボリュームと屋根の配列についても、フランク・ロイド・ライトを思う磯崎に対して、スペースの重畳という点においては同じ意識を持つことを半ば認める。大江は伝統的な「堂」・「祠」(中世頃からの言い慣わしで、日本の格式ある正統的建築は「堂」・「祠」・「居」と分類されてきた。「堂」「祠」はパブリックな集合空間、「居」はプライベートな生活空間=書院のこと)の基本形式を取り入れつつも、これに縛られず、空間構成的に、構造材料的に、そして比例寸法的に、形式から自由になろうとする。手間と時間をかけて、そこに心血を注いでいることを、具体的に苦労したところを挙げつつ語っていた。

 さらに、屋根の照りの勾配の決め方に関して、伊勢神宮ではカテナリー(懸垂曲線)を採用しようと試みたことに触れている。カテナリーといえば、ガウディのカサ・ミラ等の一連の作品を思い出す。ガウディは、建築の屋根形状にカテナリーを採用していた。伊勢神宮という「堂」・「祠」にあたる建築に、近代建築に用いられたカテナリーを持ち込むことで、伝統建築を実証主義的に復元することを避け、近代建築として創作しようとしたのである。結局は伝統的なしない棒によることになるが、これもまた、形式のみを採用し、その使い方はオリジナルとしたのであった。

大江宏が手掛ける近代和風建築には、かつて実在した「正統」な形式を選び取りつつ、これを近代建築としてそぐわうように「くずし」つつ、かといって数寄屋のような「手なぐさみ」とならぬような「けじめ」がつけられている。そして、己の感性を信じて独創した様が混在併存となって表れているのであった。