「キッチュの海とデザインの方法」(『建築文化』1983年11月号、藤森照信との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考
2017/04/10 種田元晴
1983年8月、足掛け7年にわたって大江が心血を注いだ「国立能楽堂」が完成した。それを受けて、この年から翌年にかけては、国立能楽堂に関する対談記事や評論が建築論壇を賑わせていた。藤森照信を相手にとったこの対談は、その最も早い時期に行われたものである。
そして、同じ年の6月には、磯崎新による「つくばセンタービル」が竣工していた。対談では、このふたつの建築を通じて(むしろ「国立能楽堂」にはほとんどふれることなく)、日本のポスト・モダニズムとはなにか、を問うている。
ご多分に漏れず、今回の対談も、聞かれる側の大江より、聞き手である藤森の方が饒舌である。そのなかでも、大江がやや意欲的に発言している箇所に着目してみたい。
はじめは、藤森から、なぜ法政大学でモダニズムを追求しながらも、その後引き返すようなことなったのか、との問いに対して回答した部分である。ここでは、1954年の世界旅行を経ての心境の変化、その後の設計の手掛かりとしての「新しい道具」の追求、「歴史思念みたいなものと対応して、何か探っていこうというようなこと」などに関して語っている。これらは対談のたびに幾度も語っているところではあるが、藤森の巧みないざないもあいまって、比較的、美談化されることなく、大江自身の苦悩がより具体的に吐露されていて興味深い。
続いては、和風といえば数寄屋、との風潮への嫌気に関して語っていところ。数寄屋はそもそも遊びであって、プロの取り組みではなく、土性骨が見られないものであると大江は考える。かといって、書院こそが建築の本流ということでもない、ともいう。書院は、数寄屋に比べればより公的で、格式があるが、しかし、結局は住まいである。大江がよく持ち出す「堂・祠・居」になぞらえていえば、書院は「居」。大江の求める「アーキテクチュア」は、私人的な「居」では飽き足らない。日本には元来、西洋的な大江は、「やはりアーキテクトが目差すものはパブリックの概念に相当する一番本格的なアーキテクチュア」であるという。建築には公共性が必要だと言っている。伝統に根差した価値観を大切にしながらも、大江は、学生時代に叩き込まれた近代建築の規範をも同時に追い求めようともがいている。
そこからしばらくは藤森が話し、大江が相づちを打つ。やがて話題が「材感」に及んだところで、再び大江が饒舌となる。藤森の、モダニストによる建築家が、形ばかりでなくサーフェスの洗練に気を配っているのではないか、との問いに対して、大江はこれを「リファイン」という言葉で表しつつ、賛同する。
伝統をそのまま持ち込むのでもなく、その断片を無造作に引用するのでもなく、あくまでも、「えらく丁寧に、緻密に、それで対比をつくり上げていく」工程を経た「リファイン」によって、キッチュを回避したポストモダン(モダニズムを乗り越えた)建築が実現できるとの意図であろう。この発想は、法政大学でモダニズムを追求しながらも「なにかが欠けておる」との苦悶を抱いた大江にとっての、ひとつの「新しい道具」であったのかもしれない。
「リファイン」は、現代では、青木茂が実践する既存の古ビルに新たなファサードを与えることでストックの利活用を図ろうとする手法としてよく耳にすることばである。「リファイン」はいつから叫ばれたことばであったのだろうか。大江がこのときにはじめて言い出したことばとも考えにくい。では、大江は「リファイン」をどこで知ったのだろうか。これについては、今後注意深く検証したい。
そして、最後に大江が饒舌となるのは、磯崎新の「つくばセンタービル」についての話題であった。大江は、「つくばセンタービル」を高く評価している。いわゆるポスト・モダン建築的な断片の引用がありがならも、造形力に感心・安心している。その造形力への安心感は、「極めてラショナル」であることに起因すると大江は考えている。
「つくばセンタービル」は、建築の「格」であるラショナルを守りながらも、「最後にパッと変身」させているのだ。まさに「格に入りて、格を出でてはじめて、自在を得べし」との芭蕉の言葉を体現した建築であった。そして、この後、大江は磯崎との対談に臨むこととなる。