「近代数寄屋―鍵は1930年代にある」(『建築雑誌』1982年7月号、山口廣との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考
2017/03/28 種田元晴
建築史家・山口廣による、大江宏への聞き取りである。記事は、『建築雑誌』の特集「数寄屋と現代建築」の一編を成す。大江から引き出された話を整理すると、以下のようなものであった。
- 「小石川原町の家」の無骨な和風建築が嫌いだったが、そのイメージが体にしみこんでいる。友人の家が瀟洒な英国風で羨ましかった。
- 家では書や茶等の伝統文化に触れ、工作に没頭し、父・新太郎から職人仕事的なことを直接教わった。
- 生活は和風だったが、洋画、西洋料理を好んだ。
- 関西出身の両親、東京下町に縁のあった祖父の影響。
- 家には社寺関係の資料は少なく、建築以外の美術や歴史に関する本もよく見ていた。
- 東光堂が大学に持ってくる外国雑誌にのめりこんだ。
- モダン住宅が流行していた時期にもかかわらず、住宅の課題では和風住宅を描いた。
- 大学1年生の夏休みには石清水八幡の茶室・松花堂を実測した。
- 数寄屋建築では、吉田五十八の枡屋別邸、堀口捨己の岡田邸が対照的で印象深い。
- 戦前の村野藤吾は、森五ビルに代表される独特のモダンアーキテクチャーが印象深い。
- 前川自邸、紀伊国屋、坂倉のパリ万博日本館はすごい。これらの中にこそ和風ないし数寄屋の神髄みたいなものを解読することこそが数寄屋にとって一番重要。
- 谷口吉郎の東工大水力実験室は非常にすぐれたモダンアーキテクチャー。
- 日向別邸はゲテにちょっと近い。
- 帝室博物館は屋根の扱い方が無鉄砲な、建築の定石を踏みはずした問題建築。
- 若いころはノイトラやハイポイントアパートメントNo.2が好きだったが、今は特にない。
- 山口は、数寄屋が見直される思潮には、戦時色が濃くなっていった時代に通ずるものがあると危惧。
- 若い人はもはや和風や数寄屋を体で感じられず、方法で解釈しようとしていて不安。まずは、感じられなくとも、理解することからはじめるべき。そのカ鍵は1930年代にある。
- 施主と建築家と職人が一体にならないと数寄屋はできない。
山口は、この大江への聞き取りに続いて、西沢文隆へも聞き取りも行っている。大江も西沢も、本人は数寄屋には取り組んでいない。山口は、数寄屋をつくっていないながらも、数寄屋をきちんと理解している建築家として、この二人に着目している。ちなみに、西沢は大江の2つ後輩、出身高校は大江の父・新太郎と同じ旧制三高(後の京都大学教養部)である。
西沢への聞き取りでは、意識的に、上に挙げた大江への聞き取りで話題となったトピックを中心に、これらについてどのように思うかを質問をしている。そして、この二編について、同様な話題に対する二人の意見の共通点、相違点を後記としてまとめている。
吉田五十八の枡屋別邸に対して、吉田を実はあまり評価していない大江は、これについては「非常にきれい」だと述べていた。一方、西沢は「吉田先生みたいなハリボテは絶対いやなんです」という。
また、堀口捨己の建築では大江は1933年の岡田邸を好み、西沢は1939年の若狭邸を好む。岡田邸は和風の設えに幾何学的な庭と洋室を持つ。若狭邸は、白い矩形の設えを木造の架構が支える。いずれも、同じ施主・渋井清による建築であった。
ところで、山口の聞き取りは、いずれも、「風声」を読んで、そこで述べられていたことのなかに気になった点がある、との書き出しから始まっている。「風声」のいずれの号での発言に着目したものかは定かでないが、今後の課題として、これらの原発言を発掘せねばなるまい。やはり、「風声」は大江宏とその周辺の人々の建築を考えるための重要文献である。