重畳する表題

「併存混合としての日本建築と現代建築」(『建築雑誌』1981年2月号、武者英二との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考

2017/02/28 種田元晴


 大江がこれまでにも繰り返し述べてきた、原風景としての日光のこと、海外旅行を経て、法政大学55/58年館の設計に対する心境変化があらわれたこと、そして、混在併存の様相を志すようになったことが、愛弟子・武者英二によって引き出された対談である。

 内容はこれまでに語ってきたことを整理したものであり、ここでのみ語られていることは少ない。ただし、ジョンソンと出会ったことが自身の建築への想いの転機となったことがはっきりと告白されていることは、注目に値する。

 初出は、日本建築学会『建築雑誌』1981年2月号であった。特集は「日本建築の特質」だった。仕掛け役は中川武である。いはく、現代建築を考えるうえで伝統への関心が高まっている状況を鑑みつつ、個別拡散的にでなく、日本建築の特質とは何か、という根源的な問いの必要性を訴えた企画とのこと。建築史家たちに、「永年の各研究分野の実績に立っての大胆な日本建築の特質についての像と、今後の課題を、現代建築の状況と課題という普遍的な場に提出していただ」くのが主な狙いである。一方で、歴史家たちの話だけでなく、「現代建築の創造の側からは、伝統的な日本建築への関心を語っていただき、それが現代に何をもたらし、日本建築史研究に何を要請するのか」を考えたいという。

 特集の書き手は、中川のほか、木村徳国、内藤昌、宮沢智士、西和夫、鈴木解雄、林一馬、田中淡、川本重雄、伊藤鄭爾らといった建築史家が多く、建築設計の実務家としては大江と宮脇檀のみである。なお、伊藤と大江のみが対談形式であった。

 建築史家たちの原稿は、上記の中川の要請に応えた、濃密な研究成果の提出である。しかし、その多くは現代建築の状況に触れることはなく、やはり個別的に掘り下げられたトピックとなりがちとの印象である。とはいえ、その時点での個別的な建築史研究の最前線を横断的に知ることができる点は、歴史に関心のある者にとっては興味深いものであろう。ただし、読み手に設計・建設の実務者を多く抱える学会誌としては、やはり飽き足らぬ思いが残るところだ。

 さて、実務家としての書き手に、すでに「丸亀武道館」や「伊勢神宮内宮神楽殿」を手がけ、そして「国立能楽堂」の設計に着手していた大江がいるのは理解できる。しかし、なぜあともう一人が宮脇だったのか、やや疑問が残る。

 宮脇は、日本の集落をデザイン・サーヴェイした経験が、当時盛んに取り組んでいた住宅地計画へと生かされている旨を示していた。大江は、個の建築について、伝統と現代の折り合いを模索してきた建築家であった(ただし、この建築のなかでのプロセッションは大切にした)。一方で、宮脇は、群としての建築の伝統を現代につなげようする。個の大江に対して、群の宮脇を持ち出したわけである。

 つまり、この特集の趣旨に合った実務家としては、誰よりもまず大江がふさわしいと歴史家側は考えていたにちがいない。それに対して、もう一人を挙げるならば、大江とは毛色の違う伝統と現代との在り方の模索をしている建築家としようとしたのだろう。そして、キャスティング担当(中川?)の目の届く宮脇が選ばれたといったところか。

 大江の記事の表題にも着目したい。表紙にならぶ記事表題は、『建築と気配』に収録のものと同じ「併存混合としての日本建築と現代建築」であるが、しかし、目次では、「重畳する空間」となっている。本文とも対応する表題である。おそらく、表紙の表題は、予めの仮題で、対談を終えて「重畳する空間」と改めたのではないか。しかし、編集の不手際で、「併存混合~」の方が残り、それが正式な表題となってしまった。そのため、『建築と気配』にもその表題で収録されているのだろう。「重畳する空間」のほうが、端的でいい。一方で、「併存混合」という大江の作風を表す単語の入った表題も捨てがたい。

 なお、同号では、吉阪隆正の追悼記事も特集されていた。大江が日本の伝統と現代について決着をつけようとしていたそのとき、吉阪は、亡くなっていた。吉阪は、大江とはまったく異なる方向から日本人の生活とそのかたちを考え続けた建築家だった。吉阪が生きていたら、宮脇に割り当てられたページは、吉阪によって書かれていたのかもしれない。