建築を言葉にする

「建築と意匠」(『カラム』69号1978年8月、鈴木博之との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考

2017/02/14  種田元晴


 鈴木博之とはじめて公に対談をした記事である。一貫して、建築とは、自らの心体で感じたものを拠りどころとしてつくり上げるものであり、論理や文法などによって自動的に出来上がるようなものでは決してないことが説かれている。

 興味深いのは、ふたりの議論が、単語(キーワード)を中心として繰り広げられているところである。鍵となる単語は順に、「原型」、「文法」、「模倣」、「体」、「保存」であった。

 「言葉というのは取りようで一人歩きしていく」という危惧を抱く大江が、その危惧をなんとか回避しようと、鈴木に投げられた単語について、「一人歩き」をさせまいと答えるさまが小気味よい。鈴木のサーブをどのように大江が返しているか、順に問答を追ってみよう。

 鈴木は、大江の近作である伊勢神宮神饌殿に触れることからはじめる。改築か、との鈴木の問いに、「原型の復原再生」であると大江は答える。神楽殿は内部に鉄骨を仕込みつつ、木で覆って元の姿を忠実に保った建築だった。ここで使われた「原型」を鈴木が拾い、今度は大江自身の心の内にある原型を探ろうとする。大江は、自らが好んだものを深く実感し、憧れたものを濃く想像するよう努めている。大江が、形を作る際に同時に思い浮かぶ「原型」を大切にしていることを、鈴木は引き出した。

 大江の建築は難解と言われる。それは、大江の語る言葉自体が難解であるのに加えて、大江の建築が「文法」的に正しくないようにみえることに起因するのかもしれない。その点を鈴木は、ゴシック建築とアーチを引き合いに出しつつ、大江に問う。

 大江からすれば、文章は、単語でできている以前に、文字でできたものなのだ。文字は、これ以上に意味も形も分解できない。しかし、単語は、慣用的な言葉だけでなく、日常会話のなかで新たな単語がつくられるなど、文字の自由な組み合わせで作り上げることができる。そして、単語同士をつないでできる文脈は、さらに自由となる。ただし、でたらめに単語をつないでも意味がない。下手な文章であろうとも、あくまでも自由に、しかし、意味深い文となることを目指したい。

 ここで、正しい文とならしめるはずの文法は、出来上がった文章をあとから分析したものにすぎない。文法をいくら追求しても、よい文章が出来上がるわけでないのだ。そのような趣旨が、「文法」を投げかけられた大江から語られている。これをそのまま建築に当てはめれば、大江が旨とする「併存混在」の建築の姿が釈然としてくるだろう。

 さらに鈴木は、やや刺激的に「模倣」について問う。大江はすかさずこれを「なぞり」と解して答えるのだった。「なぞり」こそ、物事を自らの血肉とするために重要であると大江は考えている。

 大江がとにかく実感し、想像することを大切する人であることをよく理解している鈴木は、「なぞり」を重要と思う大江に対して、なんでもありにしてしまわないために建物をつなぎとめるものはなにか、と大江に問い、期待通りに「体」との回答を得る。

 例のないものをつくるとか、近代建築を短絡的に否定してみたりなんてことよりも、「体」と呼応しているか、「体」と離れてしまっていないかといったことが重要だと大江に説かせ、ついには、「常に問題の焦点はそこにある」とまで言わしめる。そして、最終的には、鈴木の領域である「保存」にまで大江に言及させるのだった。

 用意した単語のうえで大江を躍らせた鈴木はさぞかし「頭の中が自由になった」ことだろう。


―鉄骨を組み上げて、それを鉄筋コンクリート躯体で覆った、構造即意匠の55年館。
―鉄骨を組み上げて、それを木の仕上げで覆った、化粧が野物を包み隠した伊勢神宮神楽殿。