建築の申楽性

「能・建築・文化」(『近代建築』1973年6月号、武者英二との対談)
(大江宏『建築と気配』収録論稿)読考

2017/01/11  種田元晴


 冒頭、「その起源を探ってみると」と言って、唐突に能の起源が語りはじめられる。マニアックな能の体系についての話が続く…。建築の話題を期待した読者は面食らい、置いてけぼりをくらそうになる。建築と関係ないではないか、と。しかし、注意深く読み進めれば、これこそが大江の建築観を示したものであると気づく。

 大江宏曰く、能は、14世紀に観阿弥・世阿弥父子によって大成された。しかし、「能」という言葉自体はさらに古く、13世紀初頭頃からあった。能と名付けられる以前の始原は、田楽、申楽にある。

 「田楽」は田植え前に豊作を願う日本古来の神事であり、「申楽」は、大陸由来の芸能と伝統的神事とが習合したものである。この二つは、祭礼のたびに必ず競演されたものであった。大江は、とくに申楽に関心を示している。

 申楽は、「散楽」という、庶民の芸能のひとつ。これに対して、大陸の芸能を貴族が育て上げたものは「舞楽」と呼ばれる。やがて、申楽から現在の大和猿楽四座(観世、宝生、金剛、金春)が生まれ、現在に至る。

 話題は能の舞へと移ってゆく。面をつけることで変身するさま、ゆっくりと所作が進行するさまが、無機質な建築空間を、神性を伴った“フィールド(「庭」)”に変えると大江は言う。空間は、時間の概念が介入されてはじめて生きるものであると大江は考えている。その感覚を、能から大江は学んでいる。

 その後は、「銀座能楽堂」の話、世阿弥の『花鏡』『風姿花伝』の話へと進んでゆく。これらについてはすでに前稿で触れた。

 そして、“bird's eye view”に関する興味深い議論へと進んでゆく。“bird's eye view”、すなわち鳥瞰図は、神の目線で下々の世界を計画してやろうという建築家の野心が体現された図法である。その罪深さに対し、大江は、そこに暮らす人々の顔を見てつくる“worm's eye view”への視点の転換を訴える。

  “worm's eye view”といえば、たまたま最近読んだ都市史家・吉田伸之の『都市 江戸に生きる シリーズ日本近世史4』のなかで、市井を生きる人々からの視座について、これを「虫けらの目」という言葉で表現していたことをふと思い出す。

 また、先日、神保町の放心亭で、建築評論家の長谷川堯氏に拙著『立原道造の夢みた建築』への読後感を伺うべく、一献お付き合いいただいたときのことも思い出す。その際、長谷川氏は、拙著のなかに鳥瞰図が多く登場することについて、「丹下も立原も大江さんも、みんな鳥瞰図を描いているよね。東大は所詮、神の目線。」との指摘をされた。

 その当の大江は、自らを省みつつ、「虫けらの目」でもって建築をつくりたいと語っていた。ともすれば自身の立場が上からの視座を持ってしまうことを自覚しつつ、これを戒めるがごとき態度であったと思われる。そんな大江の自戒を、親しく付き合われていた長谷川氏はよく理解していたのだろう。「神殿」か「獄舎」かを問う長谷川氏の意識に通ずるものが、大江の“worm's eye view”にも見受けられて興味深い。

 最後に、話題は近代建築への疑念、伝統と近代という二重構造へと及ぶ。大江は、CIAM由来の近代建築の理想に魅せられて、日本で純粋なモダニズム建築をつくりたいとの学生自分の宿願から、全力で法政大学大学院(53年館)をつくった。しかし、その完成を機に、鶏舎的な近代合理主義建築への疑念を抱き始めた。

 日本の建築は、大陸由来の退屈な近代建築一辺倒ではいけない。かといって伝統建築を進歩なく追究するわけにもいかない。では、これらを習合し、互いの特徴を顕在化させたまま共存させたものとすればよい。この発想に、大江は「混在併存」との用語をあてはめ、以降、これを生涯煮詰め続けるのだった。

 この原稿が書かれた1970年代半ば、まだ大江のなかでは「混在併存」の体現は極致を迎えていない。むしろ、粗削りで大胆な混在併存が「苦楽園の家」、「角館伝承館」などで試みられ、悩まれていた頃だった。

 さて、冒頭の話に戻ろう。なぜこの対談は能の起源から始められたのか。それは、能の起源と体系を追うことで、建築の在るべき姿が浮かび上がってくるからである。日本古来の神事であった田楽、大陸と神事の習合であった申楽、大陸芸能の貴族化である舞楽。これらは、寺社仏閣に用いられる伝統建築、伝統と近代を混在併存した建築、歴史様式を踏まえた近代建築にそれぞれ対応するように思えてならない。

 能は、申楽が発展し、生き残ったものだった。申楽的な混在併存の建築こそが、生き残る建築であると、大江はそう確信したに違いない。能が、大江に建築の在るべき姿を教えたのだった。