サーリネンと大江宏

「佇まいの建築―宇佐神宮」(『新建築』1985年11月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/11/24 種田元晴


 宇佐神宮(725年建立)は全国に4万社余ある八幡神社の総本宮である。しかし、八幡神が祀られる以前より、宇佐神宮は広大な神域、すなわち農耕圏をもつ、地域の中心となる場所だった。その広大さは、伊勢神宮(畿内)、出雲大社に匹敵するものだった。伊勢の神域は鬱蒼とした針葉樹林、出雲は肥沃な農耕地であった。一方、宇佐神宮の神域は農耕地があって、そこに広々とした森林もあった。

 広大な神域にあって大江が手掛けたのは、大鳥居のすぐ脇の池を取り囲むように面した参集殿と宝物館である。本殿は参道をずっとまっすぐ行って小高い山を登ったその頂上に位置している。山の麓にも、大きな池がある。

 宝物館・参集殿は、境内にある朱色に塗られた木造の文化財建築物群とは異なり、鉄筋コンクリート造による建築である。宝物の収蔵・展示および集会を主たる機能とするため、気密性、水密性、無柱大空間を必要とするためであろう。
 鉄筋コンクリートは近代以降の技術である。これを、上代より続く由緒正しい伝統建築にいかに調和させるか、が重要な課題であったことだろう。すでに国立能楽堂や伊勢神宮で鉄筋コンクリートによる和風建築を手がけた実績があるものの、宇佐神宮の建築にかける大江の情熱は次の一文によくあらわれている。

 〈一見するとそれは、いかにも日本にかつてあったような気がする、しかし、ひとつとして、かつてものをそのまま当て嵌めたわけではないのです。つまり、復古ではないんですね。そこにはいつの時代かのイメージが潜在していますが、具体的には何時代のどの建物というものではありません〉

 一見、投げやりかのようなこの言い回しには、大江の〈混在併存〉による建築づくりのひとつの到達点が示されているようだ。これにつづいて大江はデザインの手がかりは現実にあるものではなく、〈『風土記』ですとか『続日本記』が叙述しているもの、その文学的叙述がいわばモティーフなのです〉と述べている。

 これまでの〈混在併存〉は、現実にある一見相容れない複数の様式や部分を選り集めて、違和感のない独自の様式に昇華するものであった。しかし、ここでは、現実にある様式を組み合わせる具象的な方法から、文学からのインスピレーションを具現化して、ありそうでなかった建築づくりに挑戦している。たしかに、面する池と建築を隔てる手すりの細くスタイリッシュな意匠や、細長く並びたつ列柱の向うにそびえる花崗岩張りの壁面の量塊性などは、木造による伝統建築の引用では決してできない、近代技術がもたらした美しさであるといえる。

 そしてもうひとつ、なんといってもこの大江宏の宇佐神宮に特徴的なのは、外部の列柱、桁型、建具などにコールテン鋼が用いられていることだ。ここでも神社の建築に、近代の材料が巧みに用いられているのである。

 コールテン鋼とは、富士製鐵(現:新日本製鐵)の商品名で、正式には耐候性鋼という。もともとはアメリカで開発された材料であった。これを最初に用いた建築は、エーロ・サーリネンの遺作「ディア・カンパニー」(1963)である。サーリネンのこの建築は、ミシシッピ川とロック川に挟まれた、樫の林のなかの広大な敷地に建っている。障子が連なるかのように繊細に窓割された立面を持つその佇まいは、どこか大江宏が1955-58年に手掛けた法政大学の校舎を思わせる。

 サーリネンの下で修行した穂積信夫によれば、〈設計者のサーリネンは、コンクリートでできた逆三角形の提案が施主の感動を呼ばないので、考えこんでいたときに、たまたま来日し、古建築の架構の美に触れ、また丹下健三の旧都庁舎を見てアイディアを得たようである。帰国すると前の案はやめになり、急に鉄の架構が浮上してきた〉とのことであるJIA Topics特集 私の選ぶ20世紀の建築

 サーリネンは1957年に来日した。丹下はこの時にサーリネンに会っている。大江とサーリネンが会っていたかどうかはわからない。しかし、元所員の渋谷栄一によれば、サーリネンの下から帰ってきた穂積に頼んで、大江事務所でサーリネンについてのレクチャーをしてもらったというので、少なからぬ関心はあったにちがいない素顔の建築家たち―弟子の見た巨匠の世界01
 
 このとき、すでに大江による法政大学の55年館部分が出来ていて、残り半分の58年館が工事中だった。もしかしたら、サーリネンは法政大学も見ていたかもしれない。出来上がった建築は、縦線に明確に区切られた奥行きのあるグリッドから成る丹下の旧都庁舎の立面よりも、横に帯状に平滑な格子が連なる大江の法政大学の立面によく似ている。

 そんな、どこかかつての自身の作品に通ずる佇まいを持つこの建築を知った大江が、今度はサーリネンのこの建築から何らかのインスピレーションをブーメランのように受けとったのではないか。コールテン鋼を用いてみようと思った動機は、そんなところにあったのかもしれない。

 しかし、コールテン鋼をただ近代建築に用いても、サーリネンを超えられない。であれば、これを日本の伝統建築に用いてみてはどうか。錆びて風合いの変わるコールテン鋼の特性は、木造のそれに通ずるところがある。竣工後20年以上経ってから改めてここを訪れた穂積も、〈外部の鉄錆は風雨に洗われて、樫の木の肌のような風格がでてきた。樫の林に建物がなじんでいる〉と言っている。歴史のあとを刻み継ぐ伝統建築の材料として、コールテン鋼はなかなかふさわしい。

 近代と伝統の「混在併存」を得意とした大江は、これを伝統建築で用いる機会を伺っていたのだろう。しかし、ディア・カンパニーの凛とした佇まいに通ずる建築をつくるには、材料だけでなく、その立地も重要である。大江は、建築に辿り至るまでの「プロセッション」を大切にした建築家だった。

 ディア・カンパニーの前には、人工湖がある。生い茂る森、その中に設けられた湖、湖の周りをめぐる散策路、湖のほとりに佇む建築。その構成は、どこか日本庭園のそれのようである。湖に反射して降り注ぐ直射日光を抑えるべく庇状にめぐらされたルーバーと、空の白さが映えて障子のような表情をみせるミラーガラスによる立面もまた、日本的な雰囲気を醸している。ディア・カンパニーは、大江宏の魂を揺さぶる佇まいをもった建築だったにちがいない。

 森と池に囲まれた宇佐神宮の仕事を得た大江は、決して口に出すことはなかろうとも、この地で「混在併存」の建築を実現するにあたって、その脳裏にディア・カンパニーのあの佇まいを浮かべたのではないだろうか。

 サーリネンは、ディア・カンパニーの工事契約締結直後に、その完成を見ることなくこの世を去った。その間際、コールテン鋼のモックアップを見て錆の変化に満足した彼は、〈今後多くの建築家が争って使いたくなるであろう〉と言い残している。これに大江がユニークな使い方をもって応えてみせた。

 大江晩年の作品である宇佐神宮には、伝統と近代を「混在併存」させるその極致を見出すことができる。