丸亀を想いながら

「ものつくりの正体」(『建築文化』1975年4月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/03/17  種田元晴


 日本建築家協会会長として建築家の職能基盤の確立に腐心していた大江宏は、1975年の春にこの文章を雑誌『建築文化』に発表した。

 文章の前段部分では、日本が西洋をどのように受容し、そしてその時々で建築にどのように影響してきたかを語る。とくに、日本の近代化は、西洋に対する日本のコンプレックスが原動力となって推し進められ、その結果、創造性のない無味乾燥な世となりつつある状況を危惧している。この危惧は、日本の伝統に触れて育ち、そして近代の有様を学んだ大江が一貫して抱き、そして訴えてきたものであった。

 大江は、日本が最初に西洋を受け入れた桃山期の頃の、西洋の新しさと日本土着の町衆気質が混ざり合って展開された高邁な芸術文化を愛する。その想いから、西洋と邂逅して日本が近代を知り、そしてその先駆者との落差を埋めることに躍起になって、己の魅力のなんたるかを見失い、さらには焦土となって、まるでもともとそこにはなんの文化的基盤もなかったかのように、敗者を気負うかのごとく西洋を乗り越えようと必死になる有様に疑念を抱くのだった。

 そして、さらには、〈かねてより提起してきた「混在・併存」といった文明史観の発想〉も、近代日本が抱いた西洋対日本の図式への疑念によるものであると告白する。

 大江の言いたかったことは、建築を創造するものにとって重要なことは、そのものを取り巻く生活文化であり、その環境から感受する素養であって、勉強すれば得られる普遍的な知識ではないということだった。このような想いをここであらためて抱く要因は一体なんだったのだろうか。

 この前年、大江宏は同誌に「丸亀高校武道館」を発表していた。丸亀高校武道館は、さらにその前年、1973年に竣工していた。日本の伝統様式と近代建築の合理性を混在させた佇まいが特徴的な見建築である。

 さて、丸亀高校の本校舎は、さらにさかのぼって1960年に大江宏が手掛けたものだった。これは、法政大学、東洋英和など、大江が近代建築の意匠の本流を体現した一連の校舎建築の最後の一作である。〈多年にわたって悲願しつづけてきた西洋近代を、その申し子たる近代建築をこの地・日本に再現したいとする執念〉を抱いていた頃の大江渾身の作品であった。この名作は、2012年に解体され、もう見ることは出来ない。

 丸亀高校武道館は、校舎とグランドを挟んだはす向かいに建っている。そしてこの武道館の脇には、明治中期(1893)に建てられた「香川県立高松尋常中学校丸亀分校本館(現・丸亀高校記念館)」が残されている。丸亀高校の馬場前校長によれば、大江宏はこの本館の前に立って、その美しさに惚れ惚れとしていたとのことである。この記念館は、洋風の木造二階建ての建築で、1996年には国指定の登録有形文化財となっている。大江が文中で述べていた〈明治初年代における棟梁たちが洋風建築に取り組んでいった貪欲なまでの創作気質〉へ馳せる想いは、この建物の前に佇んだ時にも想い起こされていたのではないだろうか。

 文の後半で大江は、建築教育にも言及している。この部分は、建築家の職能確立を考える立場を兼ねつつ、大学教員として後進の指導を続けていた大江の感ずるところを述べたものであろう。しかし、単純にそれだけだったとも思えない。

 丸亀高校は建築教育の場ではない。しかし、学校は単なる知識伝授のみの場であるべきではない。創造性をもった生徒を育成するべく、「素養」が〈伝授・継承〉される必要がある。記念館は、まさに大江の記念館への想いは、一方で知識伝授の箱としてつくられた学校教育のなかで、「素養」を身につける機会としての役割を果たしていることだろう。

 丸亀高校には、近代建築の原理に則った校舎、伝統を感じさせる洋風建築の記念館、そして日本の伝統様式と近代建築の合理性を混在した武道館といった、異なる意匠の建築が集まった。これらの建築に触れて育つ生徒にとって、ここは、素養を鍛えるに格好な生活文化の場であったのだった。つまり、狩丸亀高校には、大江の教育理念の神髄がまさに凝縮されている。

 この文を書くにあたって大江の念頭には、丸亀高校に込めた想いが少なからずあったにちがいない。



丸亀高校記念館(旧香川県立高松尋常中学校丸亀分校本館)/1893(明治26)年竣工

丸亀高校 正面(1960)

丸亀高校 端部の意匠

丸亀城より丸亀高校を望む

丸亀高校武道館(1973)