建築者は演者か見者か

「能における神性と離見」(『建築文化』1973年5月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/02/02  種田元晴


 1973年に竣工した銀座能楽堂は、大江宏の手掛けた二つ目の能楽堂建築である。「能における神性と離見」は、この建築の付言として書かれた文章である。大江は還暦を迎えていた。

 大江は、〈演能の場には空間の霊性化、神性化とのかかわり合いなしに考えてゆくことはできない〉という問題意識のもと、能楽堂の設計にあたっている。かつて、能は神事だった。やがて、観阿弥世阿弥の父子によって、この「神対人」の祭儀は、「見者対演者」の演劇へと昇華される。

 神事を司る空間といえば、西欧の教会が思い浮かぶ。大江は、能楽堂の在り方に、かつて訪れたスペインのプレロマネスク様式の教会堂で味わったある日常のミサと、そこに参列していた村人たちの様子を想い起こし、この時の教会空間の使われ方に、能楽堂の本質を見出している。

 教会のミサは、神と、祭壇でミサを仕切る主任司祭と、それに従う叙任司祭、聖歌隊ら、そして身廊にて礼拝する信徒である村人によって行われる。能楽堂での演能は、神と、能舞台で主役を演じるシテ方と、それに従うワキ方、囃子方ら、そして客席から鑑賞する見者が集って成立する。たしかに、その場を共有する者の構成はよく似ている。しかし、日本古来の伝統芸能を行う能楽空間に、西欧の文化との共通性を見出すあたりが、なんとも大江宏らしい。

 能楽堂は、観阿弥、世阿弥によって神と民のための劇場となった。劇場空間をつくる上で最も重視すべきことは、観客=見者がいかに幸せになれるか、ということである。近代建築は、これに計画学で応えようとした。すなわち、より多くの観客を収容できる座席配置を検討しつつ、客席からの死角をなくし、残響時間を計算し、動線の利便を考慮し、なるべく均質な空間を作り上げることを旨とした。つまり、演者、観客、そして運営者にとって効率のよい空間が目指された。

 しかし、大江は、このような〈人間を客観的に操作しようと意図する〉計画とは全く反対に、そこに集うものが互いにどう感じるか、を大切に思う。観阿弥、世阿弥以降の能は、かつては神のために舞っていた演者は、舞台の向こうにいるお客にいま自分はどのように見えているか、といった「離見の見」を持って演じることを良しとした。また見る側も、その「離見の見」をもって演者が演じていることを理解し、演者からどのようにみられているか、「離見の見」を持って見所に座る。この自己批判的な「離見の見」は、たしかに能における心構えではあるけれども、大江は、これを単に能だけの問題とは見なさない。

 近代建築全盛の時期に教育を受け、自身のルーツでもある伝統建築とも向き合おうとした大江宏の問題意識は一貫している。大江は、効率と利益を追求する近代合理主義の台頭によって、目の前のものひとつひとつに心血を注いだ頃の気配や個性が切り捨てられてしまったことを憂い続けた。その一方で、ノスタルジーに終わることなく、近代建築の進むべき道を模索し、そして、日本であろうと西欧であろうと人間のための空間であろうとした建築に想いを馳せた。

 銀座能楽堂は、一等地の商業ビルの8、9階にある能楽堂である。これを手掛けるにあたり、大江は、あらかじめ与えられた近代の機能・経済論理の体現のごとき基準階型鉄筋コンクリートラーメン構造の商業ビル内にありながらも、その空間は、〈単に無機的な三次元構成体〉とならぬよう心掛けたことがうかがえる。その想いは、この文章が、建築系専門誌に発表した作品の付言であるにもかかわらず、当の建築の説明を一切することなく、能の在り方と建築の在り方の共通性にのみ言及するにとどまったことにも表れている。