現代建築における悲劇

「能・建築・文化」(『近代建築』1973年6月号、武者英二との対談)、
「演者と見者」(『新建築』1973年8月号、大江宏『建築作法』収録論稿)読考

2016/02/18 種田元晴


 1973年に竣工した銀座能楽堂は、3つの建築雑誌に掲載された。大江はそれぞれにこの作品に関する記事をつけている。

 はじめに発表された『建築文化』には「能における神性と離見」と題した論稿が、その翌月に発表された『近代建築』には高弟・武者英二との対談「能・建築・文化」が、そして最後の『新建築』には「演者と見者」という短いエッセイが併載されている。

「能における神性と離見」は、建築作品の付言でありながら、当の建築の説明を一切することなく、能の在り方と建築の在り方の共通性にのみ言及するにとどまったものだった。この論稿のハイライトは、能の演者と見る者が相互に互いの反応を伺いながら、相手を慮ってその場を共有する「離見の見」が、能に留まらず、あらゆる創造的行為にとって重要であるはずなのに、現代建築を作る者と使う者についてはてはめると、これが全く欠落しているという問題が浮き彫りとなる、と指摘していることにある。

 それでは、その後に発表された残りふたつの記事では、大江は何を語っていたのだろうか。

 まずは、短文の「演者と見者」から見てみよう。ここでは、紙面が狭いためか、「能における神性と離見」ではやや遠まわしに〈現代建築の不毛と悲劇〉を「離見の見」の欠落として述べていたところを、こちらではよりはっきりと〈建築空間とはもともと均質でないところに最大の特徴があり、(中略)受ける側が単なる客体、マスとして一律に取り扱われたのでは建築としての意味は最初から失われている〉と述べている。

 「マス」への疑義に関しては、この記事に限らず、大江のたびたび述べるところである。大江は、建築家としてだけでなく、教育者としても優れた見識をもった人物だった。近代建築が、人の個性を相手にすることを忘れ、大衆として、量をいかに捌くかを解決することに躍起する状況を憂いた大江は、教育においても、集団を相手に一方的に講義するマスプロ教育の不毛さを説いていた(『建築を教えるものと学ぶもの』)。

 機械の出現による大量生産・大量消費が豊かな人間世界をつくると誰もが信じて疑わなかったこの時代に、建築も、プレハブ化、標準化を推し進めることが最先端の学究となっていた。その学問的な旗手は、人間を定量化し、その特性を理性的に解決する空間の体系づくりを担った建築計画学であった。

 この記事を書いた11年後、大江は、編集者・宮内嘉久と対談している(『歴史意匠論』所収)。そこでは、建築教育から歴史意匠が軽視されている状況を嘆きつつ、その原因が〈戦後の考え方の中にあった、物量作戦というものに負けた〉ことにあると述べる。さらに、ものづくりの「もの」と物量の「物」とは、そこに心があるかどうかという点で全く違うと説きつつ、〈その無機質な物量といった観念が、計画なんかをも無機化していった〉と述べていた。これを受けて宮内は、建築計画学という未開の分野を開拓し、建築を科学的に考える礎をつくった吉武泰水の功績を認めつつも、〈吉武さんの後継者、追随者のなかには、建築の本質、基本的精神を見失うものがたくさん出てきたことも見逃すわけにはいかない〉と述べ、これに対して大江は〈本末顛倒というか、初心を忘れる、大本を見失うのはじつにこわいこと〉と同意していた。

 上記の〈受ける側が単なる客体、マスとして一律に取り扱われた〉と大江がいうその矛先は、これは本質を見失いつつある吉武の追随者たちの建築計画学へと向けられた警句だったと考えられる。

 一方、武者との対談「能・建築・文化」でも、「能における神性と離見」と同様に、「離見の見」について中心的に述べられ、後半では近代建築への疑念が語られている。

 この対談で興味深いのは、世阿弥が「離見の見」について書いた『花鏡』と、それとは対照的な世阿弥の書『風姿花伝』についてのくだりである。

 世阿弥は、父・観阿弥が亡くなる22歳の時に、観阿弥からしこまれてきた体験を綴った『風姿花伝』を著し、やがて、還暦の頃、体制と離反せざるをえない境遇に追い込まれて『花鏡』を書いたと、大江は詳細に説いている。この説明以降、『風姿花伝』についての言及はないので、この説明は話の展開とは無関係なのだが、それでも、大江はこの話をせざるを得なかった。

 大江は、世阿弥と同じく、22歳の時に、父・新太郎を亡くした。その時、大江は、建築学科に入学し、それまで父からしこまれていた建築(伝統)と、大学で学ぶ建築(近代)とのあまりにも大きなギャップに戸惑うこととなる。
 
 そして、還暦を迎えた時、この対談に臨み、江戸時代にあらゆる文化からその本来の意味が〈骨抜き〉にされることを引合いに出しながら、現代建築が、建築から人の営みとしての意味を奪い去っているという〈体制〉への抵抗を試みた作品として、銀座能楽堂を設えた。大江が自身と世阿弥の状況を重ねあわせ、建築と格闘する自身が今やるべきことのヒントを、能と格闘した世阿弥から学んでいることが吐露されているかのようであった。

 しかし、その技術革新という点では、近代にも評価すべき点があることは、もちろん大江も前提としている。大江は、近代の体現であるビルの中に、伝統の体現である能楽堂を入れた。それは、さながら、近代の技術によって得られたスマートなボディに、近代が失いつつあった「心」を入れたかのようであった。

 ビルの中の能楽堂というのは確かに違和感がある。しかし、違和感は、魅力と紙一重のものである。この二つの背反の事物を、大江は決して一体化させずに「混在併存」させることで、近代という体制のなかにありながらも、骨抜きされない建築とはなにかを体現しようとした。