「ウォーナー博士像の覆堂について」(『新建築』1971年3月号)
(大江宏『建築作法』収録論稿)読考
2016/01/14 種田元晴
大江宏(1913-1989)は建築家であったが、そのキャリアは建築でないものの設計から始まった。
その端緒は、1940年に27歳の若き大江が手掛けた中宮寺厨子である。これは、中宮寺の蔵の中から発見された飛鳥時代の小さな誕生仏を安置するための箱であるが、滑らかでなだらかにむくった方形の屋根が、矩形平面の四隅に配されたか細くも柱によって支えられたもので、いわば小さな建築であった。
ところで、この中宮寺の御厨子は、古の仏像を安置するための漆塗のこれの他に、もうひとつ、1964年になってから、日々の供養のための白木造りのものが作られた。この白木造りの御厨子には、彫刻家・平櫛田中(1872-1979)によって制作された、発見されたものと同型の誕生仏が納められた。
さて、さらに7年後の1971年、大江は、美術史家ラングドン・ウォーナー(1881-1955)の胸像のための覆堂を設計する。そして、このウォーナー博士像は彫刻家・平櫛田中によるものであった。大江は再び、平櫛による像を覆う建築を手掛けたのである。
ウォーナーは、日本の近代美術の祖であるアーネスト・フェノロサ(1853-1908)と同じアメリカ・マサチューセッツ州出身の美術史家であった。勤務したボストン美術館にて岡倉天心と出会い、その後1907年から3年間来日して、天心の下で働いた。その後、太平洋戦争のさなか、空爆すべきでない日本の地名リストを作成して米軍に進言し、日本の文化財を救ったことで知られている。胸像は、この功績を讃えて、師である岡倉天心の別邸があった茨城大学五浦美術文化研究所内に設置された。
大江の記すところによれば、銅像に天蓋を掛けたのは、天心が「にくい相手は銅像にして雨曝しにしてやれ」と述べていたことに由来するという。つまり、大切な相手を銅像にした場合には雨曝しになっては忍びないということから、天蓋が検討されたということである。
大江は、この像を覆うという日本人特有の感覚を鑑みて、その天蓋も日本特有のものであるべきと考えたようだ。しかし、そうすると「西欧的な記念様式」である銅像と日本特有の天蓋という相対するものをどのように取り合わせるべきか、といった問題に直面する。これを模索した結果、大江はとりあえず、木を使うことを決める。そして、最終的には、「細部について既往の伝統的な技法を踏襲し、全形として先例の有無を問わない構成を自由に選ぶ結果となった」と述べている。「全形として先例の有無を問わない構成」とは言っているものの、その形態は日本の伝統建築を想起はさせるものとなっている。
これについて茨城大学五浦美術文化研究所のホームページでは、〈覆堂は、天心ゆかりの日本の文化財の象徴として、法隆寺夢殿を模して設計されています〉と紹介されている。しかし、大江は夢殿を模したとは言っていない。
たしかに、覆堂は夢殿と同じく八角堂ではある。しかし、夢殿が正八角形であるのに対して、覆堂は不等辺な八角形となっている。また、立面のプロポーションも、やや寸胴な夢殿にくらべて、覆堂の方はすっきりとしたものだ。似ていると言えば似ているが、似て非なるものであるだろう。
この不等辺八角形の平面について大江は、〈ラショナルに過ぎると同時に正面性が失われると思われた〉ことによる構成であると語り、立面のプロポーションについては、〈日本建築にもっとも一般的な横長の性向を敢えて避け、たっぱの高い垂直的なプロポーションを特に選んでいる〉と述べている。
ここでいう「日本建築」とは具体的には夢殿が想起されていただろう。このふたつの特徴についての大江の解説には、夢殿を意識しつつ、しかし、これとは異なる新しい意匠を目指していたことが強く主張されている。
日本武道館は、オリンピック開幕まであと1 年という直前の時期に、指名設計競技によって設計者が選出されたものであった。大江宏も指名を受けていた。そして、公表された審査員6名のうち5名が大江宏案を推したという。しかし、なぜかその後に国会議員6名が審査に加わり、彼ら6名と大江案を推さなかった1名の審査員の計7名が山田守案を推し、5対7で山田案が当選となった(※)。
さらに、この設計競技については、まだ設計の開始されていない敷地決定の日(1963年7月17日)の毎日新聞に〈八角形の「武道の殿堂」東京五輪の柔道会場めざし、今秋、皇居北の丸に着工〉との報道がなされていた。敷地決定の時点ですでに「八角形」であることが公にされていたのである。しかし、主催者側が八角形での設計を要求したとする記録はない。むしろ、竣工後に発表された山田守による「日本武道館」の趣意説明(『新建築』1964年10月号)では、〈競技場の平面は第一に東西南北の方位を明示できる形が必要である。そのためわれわれは、正八角形の平面形を採用し、南面するところに貴賓席を設けた〉とある。
つまり、八角形平面は設計者によって採用されたもので、主催者側による設計要件ではなかったらしい。
大江宏による提案図面等は確認できず、その姿は明らかでない。しかし、案の作成に携わった子息・大江新氏によれば、スペースフレームの大屋根を持つ案であったという。つまり、少なくとも八角堂を模した屋根形状などではまったくなかった。
大江宏にとってこの設計競技ははじめての設計競技への挑戦であった。にもかかわらず、腑に落ちない不可解な点をいくつも残すものとなった。そのやりきれぬ思いたるや想像に難くない。
日本武道館を想起させる夢殿に対しても、大江は快い想いを必ずしも抱いてはいなかったのではないか。大江宏が、この覆堂で、天心が好きだったからというだけで夢殿を安直に模したのだとはどうしても思えない。というよりも、繰り返すが、不等辺八角形屋根の下に端正な細身の立面を持つ覆堂と、正八角形屋根の下に寸胴な立面を持つ夢殿は、そもそも、まったく似ていないのである。
さて、大江の処女作でもあった中宮寺厨子は、日本の伝統様式とモダニズム的な洗練性が合わされたかのような意匠のものであった。この御逗子の意匠には、後の大江の建築に通底する「混在併存」と称せられる作風の萌芽が見て取れる。その意味で、中宮寺厨子は大江の建築観を体現する重要な作品だったといえるだろう。
その後再び像を覆う建築を手掛ける大江は、覆堂の解説の末尾にて、〈既往の細部技法を新規の欲求、要因に即応せしめようとする場合に起こってくる数々の技術的困難さを現実に体験しえたことは、少なくとも意味深いことであった〉と語っている。これは、覆堂の設計に際して、西洋と日本との意匠を質高く「混在併存」させることを自らに課した大江が、それを実際にモノとして成立させるべく格闘し、そしてどのように細部を納めればよいかというひとつの答えを手に入れたとの告白だ。
ウォーナー博士像の覆堂は、単なる些末なあずまやではなく、大江宏の建築観である「混在併存」を実現するための手法が体得された重要な建築であったのである。
(※)日本武道館指名設計競技に関しては、以下を参照して記述。
- 東風亘・吉田研介:日本武道館,建築設計競技選集1961~1985,メイセイ出版(1995),pp.80-92
- 新建築社編集部:日本武道館指名コンペ(しんけんちくにゅうす),新建築1963年10月号, 新建築社(1963),p.73
- 鈴木貴詞・落合秀一・湯山正登・田中真希・吉田研介:山田守研究その2 日本武道館,京都タワーにおけるデザインソース,学術講演梗概集1999,日本建築学会(1999),pp.519-520
- 吉田研介:山田守と二つの「違反」,学術講演梗概集2015,日本建築学会(2015),pp.569-570
ウォーナー博士像覆堂を正面から望む
ウォーナー博士像覆堂の天蓋
法隆寺夢殿
中宮寺御厨子