建築3000

2013/04/01 種田元晴


現代はいつか
 いつも不思議に思うのは、「現代」とはいつかという問題である。

 “いつからか”という問題は、歴史的に様々な見解があろうと思うが、ある程度は明らかと言えるだろう。しかし、“いつまでか”というところが問題だ(“いまでしょ”というのは問題外である)。

 「現代」がいつまでか、という問題を考えるには、その前の時代の「近代」がいつまでだったかを再度考えることがヒントになるかもしれない。

 時代区分はざっくりと、世界史的には、「古代」・「中世」・「近代」・「現代」で、日本史的には、「古代」・「上代」・「近世」・「近代」・「現代」といった具合に分けられるというのが常識的なところだろう。

 しかし、そもそもこういった時代区分がいつからいつまでだったか、というのは学問の分野によってまちまちで、総じていつだったかという議論になると、100年前後の誤差をもってだいたいこの頃くらいからこの頃くらいまで、といった程度の認識しか持てないものではないかと思う。

 「近代」にしても、たとえば建築の分野では、ルネサンス以降の建築が近代建築だといったり、産業革命以降のものは近代建築だとしたり、はたまた、1900年代初頭の無装飾・普遍的・国際的・機能主義的なモダニズム建築が近代建築だとするように、学者の専門によって見解が様々ある。だいたい18世紀から19世紀くらいのものが近代建築だろうと総じるのが妥当なところであろう(日本では明治期以降に初めて「建築」という概念が出現したので、そもそも建築といえるものはすべて近代のものではないか、とすら言えなくもない)。

 さて、なんだか無意味な論を展開しかねないので、本題に立ち戻るが、すなわち、そもそも時代区分というのはあいまいなもので、その当時に生きていた人にとってはそれぞれに「いまは近代だ」「いまは中世だ」などという認識は全くないはずで、大きな時を経て後世の人々によって区分されているに過ぎないのだから、私たちにとって「いまが現代だ」という認識は本来はないはずなのだと思う。

 つまり、「現代」というのは、「当時」を生きるものが常に感じている時代概念であって、その時代は、次の時代がやってくると別の呼び名で(しかも時が大きく経つといくつかの時代がくっつけられて)定義づけられるものではないかと思う。

 しかし、一方で1960年代頃までの文献を見ると、「近代は~」という言い方でその当時を自ら表していることが少なくない。つまり、近代の人々は自分たちの時代が「近代」であったという認識があった可能性があるのだ。

 そう考えると、「現代」という時代区分を生きる我々が自分たちの時代を「現代は~」と使っていることから、「現代」というのは実は、このいわゆる戦後から2013年である今を経ていつかまでのある時代区分を表す固有な名称で、それは次の時代の人々にも「現代の頃の人々は」なんていう風に論じられるのかもしれないとも思うのである。

 そうすると、では、「現代」の次はなんという名前の時代になるのだろうか、とふと疑問に思うのである。そしてまた、その「現代」の次の時代は、いつからがそう定義されるのだろうかと不思議に思うのである。

 因みに、ビックリマン世代の我々にとってなじみの深いものに「次代」(正確にはこれは「新ビックリマン」の用語)という新たな世代を表す言葉があるが、「現代」の次の時代は「次代」かもしれない。

 というか、そもそも、日本語としてある時代の次の時代のことを「次代」というが、ここでは以降話を分かりやすくするために、「現代」の次の時代のことを「次代」ということにする。

 さて、「現代」がいつまでかは、結局のところ現代の人間にはわからず、それは次代の人々が大きな時の試練を経て名付けられるものであるということがわかったが、それでもなお現代を生きる我々が「いつまでか」を真剣に考えたいとしたら、どうすればよいだろうか。

 ここでそんな愚かな者のひとりである私が提示するのは、それは、「明らかに未来的」であると考えられるものが出現した時ではないかという見解である。


未来的とはなにか
 「明らかに未来的」とはどういうことか。
 それは、建築で言えば、実現不可能な“絵に描いた餅”であるということである。

 つまり、イメージを思い描くことは出来ても、建設は出来ない、というものが未来的な建築であり、その建築が実現できた時はもはや現代ではなくなるのではないか、と考えられる。

 未来的な建築というのは、これまでも主に映画によって具象化されてきた。

 たとえば、『スターウォーズ』シリーズなどはその代表的なものであろうと思う。『スターウォーズ』シリーズでは冒頭に「遠い昔、遥か銀河の彼方で」という文句から始まるが、あれは現実の我々の世界からみた過去ではなく、まったく異なる世界観の銀河の昔の話と考えられるので、すなわち、現実の我々の世界では未だ実現不可能な世界観という点では未来的であるといえるだろう。

 その『スターウォーズ』に登場する惑星ナブーの建築群などは、未来的であるとはいえ、どこか見たことのある風景な気もする。それもそのはずで、あれは我々の現実世界ではイスラム教圏におけるモスクの代表であるイスタンブールのハギア・ソフィアをモデルとしたものである。

 といった具合に、結局のところ、人は見たことのある風景からしか架空の(未来的な)風景を作り出すことはできないと、私の師匠は常々言っていた。

 しかし、それでも、人は未来を構想しないわけにはいかないようだ。


1000年後
 「現代」がいつからいつまでかを考えたときに、その年月の長さは果たして関係するのだろうか。もしかしたら、明日がもう「現代」ではなくなる日かもしれない。しかし、先に述べたように、「現代」が現代のものには認識不能なものであるとするならば、その境自体もそもそも認識不能なのではないか。

 とすると、人の命を単純に100年とすると、ひとりの目から連続的に観察可能な年月の間には時代区分は変わりようがないだろう。しかし、「近代」と「現代」との境をまたいで生きている人間がまだこの世には存命している。

 ということで、「近代」という時代区分も怪しいものなのではないかとすら思えてきた。もしくは、もはやそもそもの問題提起自体が間違っている可能性すらも考えられるが、人は生まれながらにして自己を正当化する責務があるとする立場から、この稿を進めなければならない。

 『建築2000』(C・ジェンクス, 工藤国雄訳, 1976, 鹿島出版会)という著作がある。「ポスト・モダニズム」という用語を造ったことで有名な建築評論家・チャールズ・ジェンクスによる、建築における各「主義」の未来像を予見した同書の冒頭には、次のような文言がある。

 〈たとえば、西暦2000年という約束ごとによって導き込まれる未来についての主張を考えてみよう。第一に、それは、キリストの、習慣上の誕生の日付を使うという伝統に依存している。ひさしくキリストもしくはキリスト教を信じているふりすらも、しなくなっている時にである。世界の終末、つまり西暦1000年のために予言された黙示も、この黙示が現実とはならなかったことを祝うための爆発的な教会建設も、予見しなかったのに、依然として、単純に、それが生み出してきた思わくのゆえに、人は常ならぬものになるだろうと想像するのだ〉

 つまり、1000年後というのはもはや現実の延長にはない、終末の後だという認識が人々(すくなくとも西暦を信じているもの=現代社会の大半の人間)にはあるのではないかと考えられる。

 そうなると、1000年後というのはもはや現在ではありえなく、未来であろう。

 西暦での現代は高々2000年程度でしかないので、1000年というのは時代区分を考える上では大きすぎる時間ではある。「中世」と「現代」との間にあった「近代」の年月を考えても、200年程度というのがいいところだろう。それに比べれば、「中世」や「古代」というのは、かなり長い年月を持っている。

 やはり時代は「現代」から遠くなればなるほどにまとめられる傾向にあり、そうしなければ人は時代を認識できないということでもあるのだろう。あたりまえではあるが、「現代」を中心に人は物事を考えているのであろう。その割に、「現代」とはいつなのかということは滅法わからずじまいだということである。わからないものを基準として考えているという矛盾を抱えているということだろう。


締切としての終末
 さて、西暦を信じているものの一人である私としては、ジェンクスのいうところの終末にはある種の“締切感”があるように思う。

 締切の間際というのは、切羽詰っている状況に対するヤバさと、継続的に取り組んでいるがために温められた集中力を原動力に、人間のクリエイティビティが最も顕著に発揮される時期であると考えられる。クリエイティブさ抜群なこの時期には、先に示した未来的な思考や発明も具現化しやすいのではないか、と考えられはしないだろうか。

 西暦1000年の時点では、まだ世界中が西暦に支配されていたわけではなかったろうから、その影響はキリスト教圏にのみとどまっていたかもしれない(それでも、キリスト教圏においては東西教会が分裂し、その後の教会建設ブーム通ずる下火的観念が西暦1000年という終末の直前期に高まっていただろう)。

 しかし、西暦2000年の時点では、世界中が西暦を信じていた。つまり、2000年前夜には世界中の人々がある種の締切感をどこかで感じていたのではないか。

 実際、1900年代末期には、情報技術が急速に発達し、世界中の人間生活を大きく変えてしまった。その生活の変化は「近代」から「現代」への境の一つと目される1800年頃の産業革命とも、1500年頃のルネサンスとも比較にならないような変革であっただろう。

 もちろん、上記のふたつの転換期も大きな時代の節目であっただろうから、やはり文化や技術といった人間の営みの一部を変える動きは、100年単位に一度くらいの割り合いで起こっていたのかもしれない。

 しかし、「現代」という境のあいまいな、しかもその期間がどんどん延びる時代の終わりを考えたとき、それは100年単位で刻めるものではないのではないかと思う。「近代」も「次代」になったそのときには、おそらく「現代」の一部とくくられることだろう。もしくは、ルネサンス以降2000年頃までが「現代」であった、とされるかもしれない。とすると、1000年ごとにやってくる終末が、「現代」を超えた次の時代の幕開けにあたるのかもしれない。

 次に大きな締切がやってくるのは西暦3000年ということになる。その頃にまだ西暦が信じられていれば、の話であるが。その頃には、ドラゴンボールの世界観のように、地球規模での暦をいつの間にかに飛び出して、スターウォーズ的な、遥か彼方の銀河系を取り巻く規模での暦が、新たな締切となって人間を駆り立てるだろう。